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夏の仲間と暮らして

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この猛暑も、ちょうどお盆を越えた週末は、中休み。そこに流れ込んで来た秋の空気に乗って、園庭にもトンボが飛んでくるようになりました。毎年、このトンボたちの群舞が、誠美の夏の終わりと、秋の訪れを運んできてくれるのです。

しか〜し、そんな感慨をよそに、視線の先には、網を片手にいつもの倍の速さで駆け回る一群が。セミ捕りには少し飽きてきたこの頃、新たなターゲットの登場に、にわかに色めき立つ子どもたち。

ひと所にじっとすることの少ないトンボの捕獲は、セミよりも数段難しいと思うのですが、それでも、ひとりの子が「ほら!」と私の目の前に差し出された手には、指の間で羽が大きくひしゃげた、少し苦しそうなトンボ。

よくぞと関心しながらも、あの羽で、再び飛び立てるものなのか…いや、そもそも放してはもらえたのか…あのトンボのその後の運命が、少し気になります。

園の敷地には、私たちの想像以上に、様々な生物が暮らしていて、そういった生物との出会いや関わりが、子どもたちの毎日を本当に豊かにしてくれます。

畑付近には、ここ数年大きなガマガエルが住みついているのをご存知ですか?毎年初夏の夕暮れ、それも園を閉める頃になると、草むらから飛び出してきて、戸締りをする職員たちを驚かせています。それ以外の時期は、一年の大半をどこかに隠れて過ごしているのですね。

ベビーカー置き場のある倉庫付近は、トカゲたちの住処になっているようで、臆病な彼らは、ちょっと人通りの少ないあの場所が都合がいいようです。

この夏は、以前ご紹介した芝のポット苗を、駐車場で育てていたのですが、実はその芝生の茂みに、そのトカゲたち数匹が住みついていたのです。いつも水遣りをするたびに、驚いて飛び出して来る…可愛い奴らでした。(子どもたちに内緒にしておいたのは…武士の情けです。)

特に夏の間は、不運にも捕獲された様々な生き物たちと、私たちは一緒に暮らすことになるのですが、それにしても、子どもたちの「捕獲したい」、「飼育したい」という思いは、一体どこから湧き上がって来るものなのでしょうか。DNAに刻まれている本能なのでしょうか。

「自然環境や生命を大切にする」という点では、まずそれらと出会い、関わっていく必要があるので、捕獲や飼育は大いに結構なのですが、飼育ケースであるが故に、子孫を残す事なく短命に終わる姿を目の当たりにすると、これをどう考えるべきなのかと、迷いも生じます。

ずっと幼い子どもになると、アリの行列を踏み潰してみたりという、少々残酷にも思えるところから、生命との関わりが始まるという側面もありますよね。

他の生命の犠牲に生かされる…私たち人間も、その連鎖の輪の一員なのですが、こうした子どもならではの、ささやかな殺生くらいは許容されているのかもしれませんね。将来、この連鎖の輪のよき担い手になるための準備として、少し乱暴で、大人がハラハラするような生命との関わりも、実は必要なのかもしれません。

以前ご紹介した研究保育で、4・5歳児クラスの保育を観察した時のこと。ある虫取りの場面が、午後のカンファレンスで話題に上がりました。

「この年齢になって、なんの躊躇もなく、虫を潰している姿があるとしたら、それを子どもらしいと言って、手放しで肯定はできないのではないか。」

との発言…もちろんその通りなのですが…私は瞬時に、以前に聞いた子どもの声を思い出していました。

「先生、あそこに蜂がいるんだ。シュー(殺虫剤)で、やっつけて!」

園内で巣作りを始めていたならまだしも、たまたま通りかかった蜂に対しても「駆除」を求める様子は、私たち保育者を含め大人たちが、安易な殺生を繰り返す姿を見ているからなのではないか…と少なからずショックを憶えたのでした。

私が、園庭の雑草を抜きながら、いつも考える事は、芝と雑草の違いは何なのか…ということ。雑草という名の草がないのと同じように、害虫という名の虫もいない…徘徊する蜂は、距離をおいて見守れば、向こうから攻撃することはない…こちらがうまい対応をとってあげれば、それは害虫でなくなる…では、うまい対応って何?問われるならば、私は、「ほどほどの共存」と答えたい。
周りの豊かな自然と生命に感謝をするのなら、室内を這うアリやクモやゴキブリにだって、少しくらい軒を貸してあげてもって…思うのです。

人間と自然や生命との関わりって、綺麗事だけでは済まない、難しさがあります。こうしたジレンマに悩み続ける事が、連鎖のピラミッドの頂点に立つ者の責務なのかもしれませんね。そして、この正解のない課題に向き合い、粘り強く考え続ける力をつけることが、これからの子どもたちの学ぶ意味だと思うのです。

例年通りなら、そろそろ、夕闇降りる園庭を、コウモリが舞い始める頃なのですが…ご存知でしたか?…これも、食事にはもってこいの場所だからかと。

(平成30年8月号園だより「ひぐらし」より)

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連日の最高気温の記録更新。それを知ってか知らずか、おやつを食べ終わると、園庭に駆け出していく子どもたち。その後ろ姿と窓越しに広がる真っ青な空を交互に眺めながら…今日は、部屋で過ごすべきなのか…まさかこんなことを案じる時代が来ようとは。昨今の夏はジレンマの季節です。

そして今、誰もが気になっているのが毎日の最高気温。このタイミングに乗じて、玄関脇にちょっと大きめの温度計をぶら下げてみました。

今日は何度かなと覗き込む大人に…きっと子どもはこう問いかけるはず。

「これ何?」
(おおっと…温度ってわかるかなぁ。)
「温度計。赤い線が高いほど暑いの。」
「赤い線?」
「こっちからだと見えるよ。」
「ほんとだ。横の10とかは?」
(そりゃ気づくよねぇ…ええっと…)
「赤い線のここ、30超えてるでしょ…それで、ひとつ…ふたつの線を超えているから、今は32度、だから暑いんだね。」
「どうして赤い線、動くの?」
(ええ!どうしてって…)

とまあ、ここまで問われるかはわかりませんが、年齢やそれぞれの理解、興味に応じて、様々なレベルの質問が飛んでくるはずなので、それを何とか打ち返してみてくださいね。

そういった時に、「この説明は、まだ少し難し過ぎるなぁ」と感じることはよくあることですが、人間とはよくできたもので、子どももあまりにも自分の理解を超えた返答は、すぐに諦めて深追いをしないものです。また、花が咲く理由や鳥が空を舞う理由にこだわらないように、あるがままを受け入れていく姿もまた子どもです。なので、理解の有無にはこだわらず、精一杯答えていれば、その取捨選択は子どもが勝手にやってくれます。一見不毛に感じるやりとりも、続けていれば、いずれ伝わる日が来るのです。

IMG 8440それよりも、大人自身がそのことに関心があること、心動いていること、面白がっていることを表現してあげることが、ずっと大事なことだと思うのです。

読み取った温度を読み上げながら、「今日も暑いねぇ。」と呟く姿を見ているうちに、温度計の持つ意味や役割を、子どもたちは少しずつ知っていくのです。やがて、呟かれている数字は、どうやら板に書かれている数字と関係があるらしいことに気づき、目盛りの読み取り方を尋ねられるかもしれません。そしていずれそれは、長さを測る定規の使い方にも生かされていくことでしょう。

大きい・小さい、長い・短い、多い・少ない、重い・軽い、暑い・寒い、硬い・柔らかい…この時期の子どもたちは、量を自分なりの感覚で、主観的に表現しています。なので、みんなで「長い」棒を集めても、その長さはまちまちなのですが、「はかる」ことができれば、それぞれがイメージする長さを、より正確に共有していくことができます(厳密性)。

また、料理の塩加減のように、量を測って投入すれば、いつも同じ味を作り出すことができます(再現性)。

IMG 8518観的で曖昧で混沌とした乳幼児の世界を脱し、客観的で厳密で秩序ある文明世界へ駆け上がっていくために…「はかる」ことは大事なパスポートひとつのような気がします。

ただ一方で、「だいたい」「たまたま」「自分なりに」が許されなくて、たまに窮屈に感じる大人社会から見ると、乳幼児らしいあの「いい加減さ」が、とても眩しく見えるのですが。

先日、専門家の指導の元、親父の会のみなさんの力を借りながら、芝生のポット苗(苗床で育てた芝生)を、園庭の夏芝が剥げている箇所に移植していきました。

移植した芝は、今夏は十分に伸び切らなくても、その根は残っていて…来夏にまた勢いづき…これを3年繰り返せば、芝生の隙間は埋まるとのこと。目先の育ちに気を取られず、目指すのは、3年先の根っこの育ち…なるほど…芝の世界もそうでしたか。

強い日差し、滝のような汗、最後のアイスキャンディー…この夏のひととき…親父たちに、ありがとうを。

(平成30年7月号園だより「ひぐらし」より)

「園暮らし」が始まる

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生えそろった芝生を掘り出して、細かくちぎって…子どもたちに手伝ってもらいながら、駐車場脇に芝生の苗床を作りました(下段の写真)。これを7月の下旬くらいまで育てて、土の露出した園庭に戻していこうという算段です。芝生の赤ちゃんを大事に見守ってください。

専門家からこういった方法を聞いて、半ば興味本位でトライしてみることにしたのですが、個人的には、多少芝生がハゲていようが、使ってなんぼの園庭なので、あまり気にしないのです。マメに雑草を抜け、芝を刈れ、肥料をやれ…彼らは口うるさいのですが、お天気との相談もあるので、意外に時間は取れないもので、結果的にそこそこになってしまうものです。

倉本聰という脚本家をご存知でしょうか。彼の書いた「北の国から」というテレビドラマの撮影を始めた頃、主人公の父親が、懸命に畑作業を取り組む場面を見て、もっとダラダラとのんびりとやるよう演技指導したそうです。既に北海道に移住していた彼は、本物の農作業のありようを実感していたからでした。

頑張り過ぎないことが、長続きの極意…と言い訳をしながら、伸び過ぎた芝刈りに勤しむのが、この季節。

さて、いつでも保育を見学してください…それが誠美流なのですが、とはいえ、何かきっかけが合った方がと、年間に「保育参観週間」を設けています。(なので、いつでも参観できるのですよ。)

そして、それをもう一歩進めて、第三者(参観者)としてではなく、保護者の方も一緒に園生活をしてみませんか?という試みを、今年度からスタートすることにしました。題して「園暮らしの日」。

他園では、「保育参加」といった「他児を見守る保育者の立場を体験してみる」というニュアンスを帯びた呼び名がつくことが多いようですが、まずはあまり構えずに、子どもたちと一緒に暮らしてみよう、一緒に生きてみよう、そこから何かを学んでみよう、考えてみよう、そんな思いを「園暮らし」に込めてみました。

ゲストとしてではなく、共にひとつ屋根の下で過ごす生活者として、いっときを過ごす仲間として、我が子以外の子どもたちと関わIMG 2957りながら、生活全般をお手伝いいただきながら、自然体で過ごしてもらえればと思っています。
3〜5歳くらいのクラスでは、「参観」の日であっても、時おり、子どもたちと楽しそうに関わっている保護者の姿を見かけます。その夢中になっている姿を見たある担任が、「子ども側の目線に立ってもらうことが、保育参加の意味か」と書いた記録を読み、なるほどと思ったことがありました。サポート役の大人の立場を体験しているようで、それを通して「子どもの立場」を学んでいる…そこが本質なのかもしれません。

(一般社会と違って?)子ども中心の、子ども本位の小さな社会だからこそ、見えるものがある、大人社会で失いがちな大切なものが見えてくる…。

新入園児には、慣れ保育という期間があります。近年、SIDS(乳幼児突然死症候群)が注目されるようになり、乳幼児施設では、数は少ないのですが、その3割が、利用開始1週間以内に発症しているというデータもあります。これは、環境変化による過度なストレスが背景にあるとも言われていて、「慣れ保育」のあり方が、ますます重要視されるようになって来ました。(当園でも、慣れ保育期間の初期に、親子で園生活を始めるというステップを入れています。)

保護者がいない時は保育園で、保護者がいる時は家庭で…もちろん、致し方ない部分もあるとはいえ、こういったわかりやすい分断(大人たちの都合?)に、実は子どもたちは少し翻弄されているようにも感じます。

親子で過ごす保育園、大人の居場所の保育園…すでに別棟の「子育て広場」では実現されていることですが…ここにも、これからの子育て環境の行方を考えるヒントが隠れているように思います。

特に、参観との違いを実感しやすいのが、0〜2歳児かもしれません。クラスそれぞれのタイミングでスタートのお知らせを出していきますので、ぜひお時間を作っていただき、いっときの園暮らしを体験してみてください。

(平成30年6月号園だより「ひぐらし」より)

園長保育

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初夏の爽やかな風が、園庭を駆け抜けていきます。歳のせいか、真夏のあの湿った空気にいつ入れ替わってしまうのだろう、と少し先を案じている自分こそ、「その日暮らし」がなっていない。季節を問わず、毎日のように園庭に飛び出していく子どもたちにまた、教えられています。

最近、4・5歳児クラスの保育をゆっくりと観察する機会がありました。当園ではこれを、研究保育と呼んでいます。活動終了後には、そのクラス担任と観察した職員、そして、外部から招いた保育の研究者にも参加していただき、この日の保育の意味を検証し、ディスカッションする時間を設けています。

その日は、小麦粉粘土にまつわる活動が繰り広げられていました。子どもたちが、過去に経験したスライムや紙粘土に、とても興味を持っていたことから、このひと月、小麦粉粘土遊びを幾度となく楽しんできたことや、その中で、感触やその可塑性(形を自由に変えることができること)を楽しみ、小麦粉と水の調合を通して、状態や色の変化に関心を持ち、計量することを通して、多い・少ないの先にある、測ることの意味に気づき始めている…といったことが、事前に担任から配られた資料に綴られていました。

今回の活動の中に、小麦粉と水の調合を、自分たちで試行錯誤してみる、というねらいがありました。うまく配合のバランスが取れたグループは、見事に粘土遊びに突入できるのですが、水を入れ過ぎたグループは、白濁した水溶液に…。

しかし、実はここからが見ものでした。水溶状になってしまった一群は、担任に訴えるわけでも、それを嘆くわけでも、諦めて全く別の遊びに移るわけでもなく、目の前のボウルの中で揺れる液体に吸い込まれるように、あっという間に、色水遊びに没入していったのでした。そう、失敗こそがスタートだったのです。

色を足して変化を楽しむ者、水を足して量の増減を楽しむ者(メートルとかグラムとか、どこかで見聞きしたのであろう勝手な単位で、量を表現していました。)、小麦粉混じりの粘度のある水であるため、ストローでブクブクと吹いた泡が消えない様子が、また面白いようで。担任が用意していた、様々な素材や道具を持ち出して、会話で情報を交わしながら夢中になっていく子どもたち。
これは、水遊びを楽しんでいるようでいて、実は水の性質を確かめている行為でもあるのです。(これを探索的な活動と呼んだりします。)楽しさの根底には、常に発見があることがよくわかる場面ですね。(この背景には、活動中の子どもたちの様子に応じながら、活動の方向性に刻々と修正を加えていく、担任の判断がありました。)

そして、隣の子の面白そうな行為や、遠くの声を聴き合い、それを真似て取り入れ、影響し合っていくことで、活動への熱気が部屋に充満していくようでした。これが、それぞれの発見や成果を共有し、学び合っている、ひとつの姿なのだと思います。
また、それらの行為や子どもたちの言葉の中に、これまでの経験や、ここ数週間で得た小さな知識が、たくさん散りばめられていることにも気づきました。

同じ遊びに取り組んでいても、それぞれに違う経験があることにこそ、意味がある…それが集団活動の本質のような気がします。

最後に、もうひとつ印象的な場面に出会いました。それは、片付けの場面。たくさんの道具や粉と水で汚れた部屋を、むしろ遊んでいたときよりも真剣な顔つきで、洗って、掃いて、雑巾をかけて…その黙々と取り組む姿に、私は思わず「楽しいの?」と声を掛けたほど。

片付けによってさっぱりとする感覚、部屋の状態が変化していくさま、そして道具を使いこなしながら、それを自分の力で実現できるという有能感…自分を使ってみたい、という思いが伝わってきました。これが、この4〜5歳という年齢の育ちなのですね。

私たち大人は、これを遊びとは分けて捉えがちですが…自分の能力を使ってみる、確かめてみる、そして役立ててみる…という点で、子どもにとっては、遊びと何の違いもないのかもしれません。

遊びと仕事…私たちが、これを分けた日々を送るようになってしまったのは、いつの頃からだったでしょうか。

すると、せわしなく立ち働く子どもたちの向こう側で、壁際の椅子にちょこんと腰をおろし、みんなの様子をぼうっと眺めている、二人の子が目にとまりました。聞けば「休憩中」とのこと。周囲はそれを咎めることもなく、それならそれで仕方がないと、その行動を受け入れているように見えました。

等分であることが公平なことなのだと、私たちは、いつの頃から考えるようになってしまったのでしょうか。

この日もまた、子どもたちに教えられ、大人たちと学び合い…私もみんなに育てられた…いい一日でした。

(平成30年5月号 園だより「ひぐらし」より)

ひとつ屋根の下で

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ようこそ、誠美保育園へ、そして新クラスへ。

先日のなかよし会(入園式)、開花の早かった桜の花も、この日を待っていてくれました。期待とちょっぴりの不安が入り混じる、このふわっとした春の空気を吸い込むと、この季節特有の高揚感が湧き上がってきます。

子どもも大人も、まずは、よく泣いて、よく笑って、今の感情を思い切り表現する…そこから始めていけばいい、そう思っています。

本誌「ひぐらし」。夏の夕方に聞こえる「蜩」…ではなく、「日暮らし」。「暮らし」という言葉の響きには、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、そこに集う人たちの文化のようなものを感じます。IMG 8106

今に夢中な「その日暮らし」
いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
今日こそはと挑む「この日暮らし」

子どもも、大人も…それぞれの毎日の営みが積み重なって、このもう一つのお家の中に、私たちならではの文化を漂わせていきたい…そんな思いを込めています。今年度も毎月、園長の勝手な思いを、つらつらと書き連ねて参りますので、どうかお付き合いください。

先日、お向かいの宮上小学校の入学式にも参列させていただきました。ついこの間まで、ともに過ごしていた卒園児たちが、緊張し過ぎることもなく、かといって、上の空というわけでもなく、周囲の声や動きを、キョロキョロと追って興味深げに観察しているように見えました。

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そんな姿を見ながら、今、日本中のそこかしこで、赤ちゃんから大人まで、こうやって大きな節目を迎えている人たちがいるのだな、と思いを広げていました。

新天地、新たな環境に慣れるというのは、中々エネルギーのいるものですが、おかげで自分の新たな一面が見えてくることも事実です。あれは、自分が変わっていくためのエネルギーだったと考えれば、多少その苦労も報われますね。

一方で、環境が変わらないことで、安定的に過ごすことで、育つものもあります。この世に生まれ出でて間もない子どもたちとっては、遭遇するモノやコト、見聞きする事象や現象、いわば毎日の経験一つ一つが、この宇宙の摂理との出会いの連続です。しかも驚くことに、それを一つ一つ自分なりに関わりながら、確かめようとしていきます。

こういったささやかな(本人にとっては重大な!)感動や意欲は、大きく環境が変化しない、一定の安定感の中で生まれてくるものだと思います。

変化の後には安定、安定を続けた後には変化、これを繰り返すことで、人は育っているのです。とはいえ、このバランスの取り方がまた、中々悩ましいものなのですが。IMG 8113

「何を変えて、何を変えないか」

みなさんのお仕事を含め、実は世の中では、あらゆる場面で常にこの判断を求められているような気がしてなりません。

変えるというのは、飛躍を目指すこと、変えないというのは、掘り下げ深めようとすること…どちらにも意味があり、どちらも大切。子どもたちの育ちから見えてくるこの2つのことは、何事にも通じる原理なのかもしれません。

さて、本年度は、保育園の保育内容を規定する、新しい「保育所保育指針」がスタートする年です。足並みを揃える幼稚園の「幼稚園教育要領」と、共につながっていく小学校の「学習指導要領」も同時に改訂されています。

文部科学省の大臣室にかかる額には、「不易と流行」と書かれているそうです。

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不易とはずっと変わらないこと、流行とはその時々で変えていくこと…とのこと。今回の改訂においても、もちろん本質は何も変わってはいないのですが、今の、そしてこれからの時代が、少し透けて見えてくるように感じています。懇談会等を通して、そうした内容も、お伝えしていければと思っています。

本年度も、応援よろしくお願いします。

そういえば、保育という文字にも、「保つ(変えない)」と「育てる(変える)」が入っていました。

(平成30年4月号 園だより「ひぐらし」より)

保育界の一番長い日

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夜半の雨は想定外だった。夕刻からは雲が切れて、翌日から晴天が続くとの予報を信じていた。なので、卒園式の園庭での開催を決めていたからだ。

深夜ではあったが、翌早朝から、会場装飾のバルーン設置に取り掛かるI井氏に、ホール開催に変更の可能性ありとメールを入れた。

雨が上がった翌朝、少し遅れて保育園に到着すると、既にバルーンはホール側に運び込まれていた。園庭の真ん中に立って、足元に目を落としてみる。水はけは問題ないようであったが、気温はどうにも上がりそうにないなと、切れそうで切れない雲が、いっぱいに広がる空を見上げた。

そうと決まると心は晴れた。ホールでの式も、ぎゅうぎゅうな分、一体感を感じていいものなのだ。

それにしても、今年の卒園児たちは、式のリハーサルでもよく笑っていた。証書を渡す私の言葉や仕草にも、証書をもらう友だちの仕草にも、保育者のはなむけのコメントにも。それぞれに、面白く感じるポイントは違うようなのだが、少し退屈な式の流れに、椅子の上で体をもぞもぞさせながら、よく見て、聞いているものだなと感心する。

一体何が面白いのかなと、子どもの感性を不思議に思うことも多いが、この頃の年齢になると、この可笑しさがわかるようになったのか、と驚くことも多い。何に笑うのかというのは、知的発達のバロメーターだなといつも思う。自分が想定するその人や、その場の状況や雰囲気との微妙なズレを、敏感に感じ取れるから人は笑える。そのためには、相当の想像力や思考力が必要になると思うのだが、世に生まれてたった6年ほどで、この笑いのツボもグッと大人びてくる。

昨年までは、子どもとその保護者の席が、右と左に分かれて対面していたはずなのだが、なぜか今年は、左右に分かれたそれぞれの前列に子ども、後列に保護者というレイアウトに変わっていた。

壇上から保護者へ語りかける時、左右に首を振って、均等に視線を配る気遣いを、まだかなと、退屈そうに体をひねる子どもたちの頭越しに成し遂げねばならぬという…そこには、大きな試練が私を待ち受けていた。

そこで私は、日頃考えることも多い「子どもとオトナの境界線」について話したような気もするのだが、はっきりと覚えているのは、知らず知らずのうちに、体が椅子から崩れ落ちていくのを、懸命に持ちこたえようと蠢く幾重もの影を、左右に移す視線の隅で確認して、話を先へと慌てていたことだ。

玄関先で、お二人の来賓を見送ったあと、式場は「謝恩会」という、かなりこそばゆい会に模様替えされ、少し恐縮した面持ちで、子どもたちにエスコートされた席へと腰を下ろした。

司会に、演奏に、スライドショーに、印刷物に…普段私たちが接する母親、父親の顔とは異なる、オトナとしてのそれぞれの技量…そこに職場で奮闘する姿を重ね、想像しながら一人感じ入る時間が過ぎていく。ふと窓に目を移すと、その向こうには、早朝のようすが嘘だったかのように、春の陽射しを湛えた園庭が輝いていた。

夕闇を迎える頃、駅前の居酒屋には、日中の余韻を抱えながら、三々五々集る一団があった。保育者にとっては卒園式の、保護者にとっては謝恩会の、合同「打ち上げ」といったところだろうか。

最初に同席したY﨑母とM舩母からは、この「ひぐらし」の感想が聞けた、お酒に強そうなS藤母からは子育てと仕事への思いを聞いた、K岩父からは、行事毎のしおりのデザインを褒められた、通算11年のお付き合いだったE藤母から、周囲の助言を押しやってこの園に入園させたと聞いた、I藤母には、いつでもおいでと声をかけた、T本母と我が子の成長ぶりを分かち合った、後から駆けつけたA野父とT木母の、変な掛け合いが妙に可笑しかった…もっとたくさんの保護者と話したかった…お酒も入って、みんなはしゃいでいた、抱き合っていた、踊っていた…それは、親でもない、職業人でもない、かつての○○ちゃんに戻って笑い合う、素のオトナたちの姿だった。

人は、いくつもの自分を持っている。家庭で、仲間内で、職場で、地域で…それぞれの舞台で、それぞれに求められる役割を必死に演じている。でもたまに、どれが本当の自分かわからなくなる時がある。挙げ句の果てに、全部が自分なのだと達観してみせたりする。
素直でいたい、自然体でいたい…本当は、皆がそう思っている…幕間に戻れる自分の楽屋を探している…子どもだって、オトナだって自分らしくいたいのだ。

この6年間、親として舞台に上がり、まずまずだった第一幕の終演を、衣装を取って喜び合う役者たちの姿に、なんだか眩しさを覚えていた。もうひと盛り上がりで、ようやく今日一日も終わるのかなと、少し疲れた頭で考えていた。

そして間もなく、また、第二幕のベルが鳴るのだ。

(平成30年3月号 園だより「ひぐらし」より)

白い恋人たち

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久しぶりとあってか、先月末から今月かけた大雪には、少し慌てました。いまだ、雪かきに奮闘中の雪国の方々には少し笑われそうな話ですが。

IMG 2733ふわふわに降り積もった、足跡一つない園庭。これから始まる雪遊びに、部屋の中で準備する時から、子どもたちも興奮気味…なのに、いざ園庭に飛び出し、雪の布団に大の字でダイビングするK西先生の後に続く子どもはおらず、こちらは少し拍子抜け。

よく考えてみれば、スキー場を含めても、わずか数年を生きただけの子どもたちにとって、降り積もる雪に遭遇した経験など限られているだろうから、少し慎重になるのも当然かもしれません。人間の自己防衛本能も大したものです。

IMG 2748中には、濡れたといって途方に暮れる子、冷たいと言って泣き出す子もいて、雪なのだから、それは当然だろう思いながら…言葉や絵本で見聞きしていたものを、こうやって、身を持って、感覚を通して、本当の意味で知っていくのですね。言葉は言葉だけでは定着しないもので、感覚とセットになって獲得されていくものです。普段「言葉を憶える」という言い方をしますが、実は感覚や感情を伴いながら、それは刻まれていくもので、少し難しく言うと、音声としての言語が身体化されていくというのが、言葉の獲得プロセスの正体です。体験に言葉を添えてもらいながら言葉を憶えているのです。

今回の雪との遭遇がそうであったように、子どもたちは、この世界の様々なエッセンスに、こうしてひとつ一つ出会っていく…その初めての出会いの場面に立合うことができる私たちも、なんとドラマティックな経験をしているのだろうかと、あらためて思います。そして、その出会いの瞬間を意味あるものにするための演出力、それが私たち、キューピッド役の腕の見せ所です。

IMG 2754さて、先日は、年長児童が参加した近隣、4つの保育園が集まって「ドッヂボール交流会」。心配だった園庭の雪もすっかりと消えた、今年は当園が会場でした。

今回は、昨年までの園対抗をやめ、交流をさらに深めていこうと、4園の混成チームを複数作り、後半は、一足先に顔見知りになろうと、就学する小学校別のチームで○×ゲームを楽しみました。

混成チームという初めての試みを、子どもたちがどう受け止めるのかと注意深く見守っていたのですが、チームの勝利に顔を見合わせ喜ぶ姿、自チームの担当保育者が他園の先生であっても、駆け寄って、笑顔を交わしながらハイタッチする姿、チームで相談しながら、真剣にゲームに取り組む姿…自然に関わり合えるしなやかさは、期待以上の光景でした。

IMG 2756応援に駆けつけてくれたそれぞれの園の保護者の皆さんは、もしかしたら、どこを応援?という戸惑いもあったのかもしれませんが、対抗戦であった時には、少し過熱気味の声援も気になっていました。どうしても自園の活躍に終始しがちな視点から、「ならば、何を見ようか」と視野を広げ、子どもたちの姿に、それぞれの発見があったのなら嬉しいなと思います。

これは、子どもたちにとっても同じで、わかりやすい対立軸を設けると、仲間内での連帯感は高まるのかもしれませんが、むしろ交流相手との距離は広がるのかもしれません。チームメイトといっても、交流会のいっときでは、打ち解けるまではいかないのかもしれませんが、「さて、どうしよう」といった戸惑いこそが、相手に関心を寄せようとさせるのではないでしょうか。

交流会の終了間際に聞こえた「おもしろかったぁ。」という子どもの声は、交流ならではの「出会い」の楽しさを見つけた言葉。 

私たちが放った今回の矢は、そのハートを大きくは外さなかったのかな。

(平成30年2月号 園だより「ひぐらし」より)

おせちもいいけど

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明けましておめでとうございます。

さて、以前から見たい見たいと思っていた映画に「みんなの学校」というものがありました。3年ほど前に公開され、日本のあちこちで、自主上映会もされてきたドキュメンタリー。私の身近な場所でも上映会など何度かチャンスはあったのですが、なかなかタイミングが合わずに歯がゆい思いをしていました。するとなんとこの年末、たまたま点けたテレビチャンネルで、この映画の放映に出くわしたのでした。ゴロゴロと過ごす年末年始も悪くないものです。

「みんなの学校」は、支援が必要な子も含め、在籍児童みんなが同じ教室で学び、誰もが通い続けることができる学校を目指す…大阪市立大空小学校の日常を追ったドキュメンタリーです。

「学ぶとは、どういうことなのかを考えさせられた。」
大空小学校に赴任直後の若手教員の言葉が印象的でした。どんな子も、みんなが同じ部屋で過ごすというスタイルは、保育園や幼稚園などの乳幼児施設では普通のことですが、それでも、ある程度の発達段階(年齢)によって部屋を分け、クラスを編成しています。なので厳密に言えば、「どんな子も一緒」というわけでもなく、これは、学年ごとには別教室になる大空小学校も同様です。

IMG 78722教科的な学習効果までを考えた場合には、どういったクラス分けが有効なのかは、実は難しい問題なのですが、人間形成も含め、もう少し幅広く「学び」を捉えた時に、その悩ましさはさらに深くなる…この簡単には答えの出せない問いに、真正面から向きあっているから、あのつぶやきが生まれるのかもしれません。

クラスをどう編成するのかといったこと以上に、大空小の実践が語る本質的なメッセージ…それは、「あなたと私は違う人間」という前提を徹底的に貫き、それを乗り越えることで、一人ひとりの居場所を作り、本物の仲間作りをしようということなのだと私は思います。

友だちとトラブルになったある男児に、「あなたという人を、相手に理解させていないから、そうなるの。」と教員が諭す場面が登場します。相手と自分は違うという前提に立つことは、まず、相手の思いや考えを、決めつけず冷静に理解しようとする敬意が必要なのですが、それ以上に、自分を理解してもらうために、自分の心を開いて、相手に見せる「勇気」も求められていくのですね。

同質の価値観や能力でまとまることは、一見うまくいきそうに思えるのですが、それが異質なものを排除することで安心感を得ようとするものであるのなら、そこでの学びは少し物足りないものとなるように思います。

IMG 78712そのまま、ゴロゴロと新年に転がり込んでいくと…次に目に留まったのは、中高年は立ち入り禁止!と銘打った、若者たちによる討論番組。なので、私は見つからないようにゴロゴロと伏せった体勢のまま、こっそりと視聴。

この日は、彼らが社会全体に感じる「根拠なき不安」がテーマ。なんだかんだと叩かれがちな若者たちの、その語りには、鋭敏さと…それ故の苦しさと…そしてある種の優しさが漂っていました。

不安の根源は孤独を恐れること…そう語った出演者がいましたが、これからの社会を模索する手掛かりを、もっと豊かで確かな「他者との繋がり方」に求めている…どの出演者にも共通する認識だったように思います。豊かな繋がりとは、価値観の多様性を前提とした…「あなたと私は違う」ことを踏まえた連帯だと思うのです。そして、安易な気遣いや思いやりといった同調を超え、対話を続ける関係が確かさなのでしょう。

若者と言われる彼らの率直な語りからは、いつも学ぶことが多いと感じます。それは、若者たちの思いを理解するその先に、もしかしたら、物言わぬもっと若者=子どもたちのありようも見えるのかも、という期待があるからなのです。

そしてあっという間の、正月最終日。ゴロゴロと行き着いた先は、かの「君の名は。」地上波初放送。あれはなんと、時空をも超えて人が繋がるという…もっとすごい話でした。

本年も、みんなの繋がりが深まる一年となりますように。

(平成30年1月号 園だより「ひぐらし」より)

師走の訪問者

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私ごとで恐縮ですが、師走に入った途端に体調を崩す中、押し寄せる年末のスケジュールを何とかこなし、ヨレヨレになって、ようやく辿り着いた年末。

「食う、寝る、遊ぶ」…こんなシンプルな毎日を、ただただ送りたいだけなのに、その裏側で、小難しい顔をした大人たちが顔を付き合わせ、なんと複雑な手続きを動かしていくのだろう…世の中って本当に不思議でなりません。

そうした中、先日の餅つきは、餅米を蒸すカマドの火を炊きながら、やっと我に返れたような…入れ替わり立ち替わり、そこを訪れる子どもたちの問いかけに応じるうちに、少しずつ元気を取り戻していくことを感じた時間でした。

何をやっているのか、どうして火を燃やすのか、銀色に光る入れ物は何なのか、釜やセイロには何が入っているのか、訪れる子どもたちそれぞれの興味は、驚くほど尽きません。餅つきとの繋がりに、少しでも気づいてもらおうと、もち米と普通のお米(うるち米)を手に取れるよう並べて置いてみたり、蓋をとって中身を見せたり。そうしていると、何歳であっても必ず、見事なまでに、その子なりの関心に応じて、五感を使い何かを確かめようと真剣に迫ってきます。この湧き上がるような好奇心。教えられる以上に、自ら知ろう、学ぼうとする存在…それこそがやはり、子どもなのだと思うのです。(それを引き出すには、物や人といった周囲の環境=仕掛けが大事なのですが。)

さて、この一年、利用者の方々には気づきにくい部分で、実は様々な動きのあった年でした。

春には、社会福祉法や保育制度に大きな改正があり、vv弱小法人としては、その激変の波を乗り越えるための体制作りに追われました。

また、来年度に実施される10年に一度の大きな教育関連の法改正を見据えながら、今後の保育内容をもう一度自らに問い直してみる一年でもあったようにも思います。これは、これからの園生活や活動の様子を見守っていただく中で、実感してもらえるように、私たちが頑張っていかねばなりません。

そして、園長として、保育者の研修会や保育者養成校で話をさせられていただいたり、専門誌の原稿を書かされせていただいたり、園内の実践やその考え方を、対外的に発信する機会が、なぜだか多い年でした。少し億劫な仕事でもあるのですが、そのおかげで、考えを整理できたり、新たな気づきがあったり、脳内の老化防止になったり…人に伝えようとすることは、自分自身が学ぶことになることを改めて実感しました。

その中で、とある大学からは、「20年後の社会モデル」というお題で何かを話せと…ニュータウン片隅、子どもの居場所に身を寄せる私になんと無茶な。それはちょうど目の前の子どもたちが、成人式を越えた頃だなと、その大きくなった姿を想像した時、ある思いを抱きました。

「コドモとオトナの境目は、一体どこにあるのだろう…」かと。

その頃の彼らを、私はオトナと感じるのだろうか、そもそも、私、そしてこれをお読みになっているみなさんは、いつ頃からオトナになったと感じたのかと。

もし何か一つ、コドモとオトナの違いをあげるとするならば、「育てる」という役割を少しずつ背負っていくのが、オトナと呼ばれる者の宿命でしょうか。それは、コドモと呼ばれる人に対してだけでなく、後輩や同僚、友人…そして周囲のみんなに…何らかの気づきや刺激を与え、憧れを抱かれる存在…それがオトナ。同時にそうしたオトナも、何かから学びを得ながら、育てられている存在でもあるはずです。

「育つ」というのは別の自分に変わっていくことです。何かから学びながら変容し続けるという点において、実はコドモとオトナの境目はないのかもしれません。育てる者が育った分だけ、育てられる者は育つ…とも言えますよね。

カマドの前を行き来しながら、貪欲に何かを知ろうとする姿は、本当に眩しい。でも、私たち大人だって、明日はまた、一味違った自分になろうとする姿は、やはりきっと、子どもに負けないくらい輝いている…それがもう、髪が白くなり始めた人であったとしても。

まもなく、年も変わっていきます。

(平成29年12月号 園だより「ひぐらし」より)

冬の気配を前に

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今年の芝生の種まきは、出遅れた秋雨前線や台風の到来と重なり、生育がもう一つだったのですが、これも致し方のないこと。朝晩の冷え込みに、このまま真冬に流れ込んでしまうのか…もう少し、秋を楽しみたい…そんな思いで芝生をオープンしました。

園内のそこここで、芋掘りをはじめとした、秋の味覚を楽しむ活動が点在する一方、お楽しみ会へ向け、様々な表現遊びが繰り広げられています。昨年とは、また一味違った新たな構成となりそうで…どうなることやら…でも、本番は、実は当日までのプロセス!、楽しんでいきましょう。

さて、年末に、園内の七不思議のひとつ…が存在しています。それは、なぜか、クリスマスイブでもない日時に、突然、サンタが来園してくれることです。子どもたちは、目の前のプレゼントに目が眩むのか、これを素直に受け入れてしまうのですが、私たち職員は騙されません。これは何かがおかしい…ここ数年、この謎について、みんなで頭を悩ませ続けてきた結果、ついにその謎が解けたのです。

「あれは、偽物だったんだ!」

私たちは本当にお人好しでした。今年からは、もう偽物の侵入は許さない、そう決意して、12月24日の夜にやってくる本物のサンタだけを待つことにしました。

ただ、あいにく当日の夜は、みんなで出迎えることはできないのですが、翌朝にはきっと、プレゼントが…だとしたら、立ち寄った痕跡も何か残っているはず…それも、子どもたちと探してみたいと思っています。

今とちょうど正反対の夏の時期。保護者の皆さんに、お泊まり保育を企画していただきました。せっかく園内で一夜を過ごすということで、園舎で肝試しを楽しむのが恒例となっています。

誰もいなくなった2階の暗〜い部屋を巡るコース。かつては、見守り役も含め、私が物陰に隠れて、どこからともなくゆっくりとボールが転がってきたり、小さな物音が聞こえたり…手持ち無沙汰に任せて、そんな演出をしていました。

これは、脅かすというより、ん?何か変?…と不思議さを感じる程度に…そう、こだわったのは「気配」なのです。

ここ最近は、多くの職員たちが参加してくれるため、お化けが登場したり、効果音が入ったりと、賑やかな?「お化け屋敷」となっています。(みんなで楽しむものと考えれば、それはそれでいいのかもしれませんが。)

サンタの来園でこだわっていきたいことも、実はこの「気配」を感じること。
科学的に解明されたものが、目に見えるものだけが、その存在が認められ、「何かを感じた」くらいでは、一笑に付される今の時代。目を凝らせば見えるのかも、耳をすませば聞こえるのかも…もしかするといるのかも…そうした想いは、周りの世界を、そして毎日の生活を、情感溢れるものにしてくれる気がするのです。

そして「まだよくわからないもの」は、「畏れ」となって、私たちに謙虚さのようなものをもたらします。だから、五感を研ぎ澄まし、頭をフル回転させて、感じよう、知ろうとする。わかることの面白さのその一方で、何かよくわからないことが、さらに毎日を豊かにしてくれる…自分を取り囲む世界のそこかしこに、そういった未知なるものが潜んでいて、その一つ一つと巡り会っていく…それが、まさに子ども時代だと思うのです。

勝手にわかった気になっている私たち大人も、そんな謙虚さを、少しでも持ち合わせることができれば、刺激に満ちたあの頃に…戻れるのかもしれませんね。

そしてもう一つ、サンタ周辺の情報筋から、新たな情報が入ってきました!

「彼は、子どもたちそれぞれにではなく、クラスごとに、もっとビッグなプレゼントを考えているらしい。みんなのお願いを、よく相談しておいた方がいい。」

私は、「みんなのお願い」という表現に引っかかりました。もしかすると、これは、「モノ」である必要はないのではないか?
となると、ここからは発想力。サンタを少し困らせるようなプレゼント…お願いして…しまいましょうか。

(平成29年11月号 園だより「ひぐらし」より)

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