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ひとつ屋根の下で

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ようこそ、誠美保育園へ、そして新クラスへ。

先日のなかよし会(入園式)、開花の早かった桜の花も、この日を待っていてくれました。期待とちょっぴりの不安が入り混じる、このふわっとした春の空気を吸い込むと、この季節特有の高揚感が湧き上がってきます。

子どもも大人も、まずは、よく泣いて、よく笑って、今の感情を思い切り表現する…そこから始めていけばいい、そう思っています。

本誌「ひぐらし」。夏の夕方に聞こえる「蜩」…ではなく、「日暮らし」。「暮らし」という言葉の響きには、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、そこに集う人たちの文化のようなものを感じます。IMG 8106

今に夢中な「その日暮らし」
いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
今日こそはと挑む「この日暮らし」

子どもも、大人も…それぞれの毎日の営みが積み重なって、このもう一つのお家の中に、私たちならではの文化を漂わせていきたい…そんな思いを込めています。今年度も毎月、園長の勝手な思いを、つらつらと書き連ねて参りますので、どうかお付き合いください。

先日、お向かいの宮上小学校の入学式にも参列させていただきました。ついこの間まで、ともに過ごしていた卒園児たちが、緊張し過ぎることもなく、かといって、上の空というわけでもなく、周囲の声や動きを、キョロキョロと追って興味深げに観察しているように見えました。

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そんな姿を見ながら、今、日本中のそこかしこで、赤ちゃんから大人まで、こうやって大きな節目を迎えている人たちがいるのだな、と思いを広げていました。

新天地、新たな環境に慣れるというのは、中々エネルギーのいるものですが、おかげで自分の新たな一面が見えてくることも事実です。あれは、自分が変わっていくためのエネルギーだったと考えれば、多少その苦労も報われますね。

一方で、環境が変わらないことで、安定的に過ごすことで、育つものもあります。この世に生まれ出でて間もない子どもたちとっては、遭遇するモノやコト、見聞きする事象や現象、いわば毎日の経験一つ一つが、この宇宙の摂理との出会いの連続です。しかも驚くことに、それを一つ一つ自分なりに関わりながら、確かめようとしていきます。

こういったささやかな(本人にとっては重大な!)感動や意欲は、大きく環境が変化しない、一定の安定感の中で生まれてくるものだと思います。

変化の後には安定、安定を続けた後には変化、これを繰り返すことで、人は育っているのです。とはいえ、このバランスの取り方がまた、中々悩ましいものなのですが。IMG 8113

「何を変えて、何を変えないか」

みなさんのお仕事を含め、実は世の中では、あらゆる場面で常にこの判断を求められているような気がしてなりません。

変えるというのは、飛躍を目指すこと、変えないというのは、掘り下げ深めようとすること…どちらにも意味があり、どちらも大切。子どもたちの育ちから見えてくるこの2つのことは、何事にも通じる原理なのかもしれません。

さて、本年度は、保育園の保育内容を規定する、新しい「保育所保育指針」がスタートする年です。足並みを揃える幼稚園の「幼稚園教育要領」と、共につながっていく小学校の「学習指導要領」も同時に改訂されています。

文部科学省の大臣室にかかる額には、「不易と流行」と書かれているそうです。

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不易とはずっと変わらないこと、流行とはその時々で変えていくこと…とのこと。今回の改訂においても、もちろん本質は何も変わってはいないのですが、今の、そしてこれからの時代が、少し透けて見えてくるように感じています。懇談会等を通して、そうした内容も、お伝えしていければと思っています。

本年度も、応援よろしくお願いします。

そういえば、保育という文字にも、「保つ(変えない)」と「育てる(変える)」が入っていました。

(平成30年4月号 園だより「ひぐらし」より)

保育界の一番長い日

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夜半の雨は想定外だった。夕刻からは雲が切れて、翌日から晴天が続くとの予報を信じていた。なので、卒園式の園庭での開催を決めていたからだ。

深夜ではあったが、翌早朝から、会場装飾のバルーン設置に取り掛かるI井氏に、ホール開催に変更の可能性ありとメールを入れた。

雨が上がった翌朝、少し遅れて保育園に到着すると、既にバルーンはホール側に運び込まれていた。園庭の真ん中に立って、足元に目を落としてみる。水はけは問題ないようであったが、気温はどうにも上がりそうにないなと、切れそうで切れない雲が、いっぱいに広がる空を見上げた。

そうと決まると心は晴れた。ホールでの式も、ぎゅうぎゅうな分、一体感を感じていいものなのだ。

それにしても、今年の卒園児たちは、式のリハーサルでもよく笑っていた。証書を渡す私の言葉や仕草にも、証書をもらう友だちの仕草にも、保育者のはなむけのコメントにも。それぞれに、面白く感じるポイントは違うようなのだが、少し退屈な式の流れに、椅子の上で体をもぞもぞさせながら、よく見て、聞いているものだなと感心する。

一体何が面白いのかなと、子どもの感性を不思議に思うことも多いが、この頃の年齢になると、この可笑しさがわかるようになったのか、と驚くことも多い。何に笑うのかというのは、知的発達のバロメーターだなといつも思う。自分が想定するその人や、その場の状況や雰囲気との微妙なズレを、敏感に感じ取れるから人は笑える。そのためには、相当の想像力や思考力が必要になると思うのだが、世に生まれてたった6年ほどで、この笑いのツボもグッと大人びてくる。

昨年までは、子どもとその保護者の席が、右と左に分かれて対面していたはずなのだが、なぜか今年は、左右に分かれたそれぞれの前列に子ども、後列に保護者というレイアウトに変わっていた。

壇上から保護者へ語りかける時、左右に首を振って、均等に視線を配る気遣いを、まだかなと、退屈そうに体をひねる子どもたちの頭越しに成し遂げねばならぬという…そこには、大きな試練が私を待ち受けていた。

そこで私は、日頃考えることも多い「子どもとオトナの境界線」について話したような気もするのだが、はっきりと覚えているのは、知らず知らずのうちに、体が椅子から崩れ落ちていくのを、懸命に持ちこたえようと蠢く幾重もの影を、左右に移す視線の隅で確認して、話を先へと慌てていたことだ。

玄関先で、お二人の来賓を見送ったあと、式場は「謝恩会」という、かなりこそばゆい会に模様替えされ、少し恐縮した面持ちで、子どもたちにエスコートされた席へと腰を下ろした。

司会に、演奏に、スライドショーに、印刷物に…普段私たちが接する母親、父親の顔とは異なる、オトナとしてのそれぞれの技量…そこに職場で奮闘する姿を重ね、想像しながら一人感じ入る時間が過ぎていく。ふと窓に目を移すと、その向こうには、早朝のようすが嘘だったかのように、春の陽射しを湛えた園庭が輝いていた。

夕闇を迎える頃、駅前の居酒屋には、日中の余韻を抱えながら、三々五々集る一団があった。保育者にとっては卒園式の、保護者にとっては謝恩会の、合同「打ち上げ」といったところだろうか。

最初に同席したY﨑母とM舩母からは、この「ひぐらし」の感想が聞けた、お酒に強そうなS藤母からは子育てと仕事への思いを聞いた、K岩父からは、行事毎のしおりのデザインを褒められた、通算11年のお付き合いだったE藤母から、周囲の助言を押しやってこの園に入園させたと聞いた、I藤母には、いつでもおいでと声をかけた、T本母と我が子の成長ぶりを分かち合った、後から駆けつけたA野父とT木母の、変な掛け合いが妙に可笑しかった…もっとたくさんの保護者と話したかった…お酒も入って、みんなはしゃいでいた、抱き合っていた、踊っていた…それは、親でもない、職業人でもない、かつての○○ちゃんに戻って笑い合う、素のオトナたちの姿だった。

人は、いくつもの自分を持っている。家庭で、仲間内で、職場で、地域で…それぞれの舞台で、それぞれに求められる役割を必死に演じている。でもたまに、どれが本当の自分かわからなくなる時がある。挙げ句の果てに、全部が自分なのだと達観してみせたりする。
素直でいたい、自然体でいたい…本当は、皆がそう思っている…幕間に戻れる自分の楽屋を探している…子どもだって、オトナだって自分らしくいたいのだ。

この6年間、親として舞台に上がり、まずまずだった第一幕の終演を、衣装を取って喜び合う役者たちの姿に、なんだか眩しさを覚えていた。もうひと盛り上がりで、ようやく今日一日も終わるのかなと、少し疲れた頭で考えていた。

そして間もなく、また、第二幕のベルが鳴るのだ。

(平成30年3月号 園だより「ひぐらし」より)

白い恋人たち

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久しぶりとあってか、先月末から今月かけた大雪には、少し慌てました。いまだ、雪かきに奮闘中の雪国の方々には少し笑われそうな話ですが。

IMG 2733ふわふわに降り積もった、足跡一つない園庭。これから始まる雪遊びに、部屋の中で準備する時から、子どもたちも興奮気味…なのに、いざ園庭に飛び出し、雪の布団に大の字でダイビングするK西先生の後に続く子どもはおらず、こちらは少し拍子抜け。

よく考えてみれば、スキー場を含めても、わずか数年を生きただけの子どもたちにとって、降り積もる雪に遭遇した経験など限られているだろうから、少し慎重になるのも当然かもしれません。人間の自己防衛本能も大したものです。

IMG 2748中には、濡れたといって途方に暮れる子、冷たいと言って泣き出す子もいて、雪なのだから、それは当然だろう思いながら…言葉や絵本で見聞きしていたものを、こうやって、身を持って、感覚を通して、本当の意味で知っていくのですね。言葉は言葉だけでは定着しないもので、感覚とセットになって獲得されていくものです。普段「言葉を憶える」という言い方をしますが、実は感覚や感情を伴いながら、それは刻まれていくもので、少し難しく言うと、音声としての言語が身体化されていくというのが、言葉の獲得プロセスの正体です。体験に言葉を添えてもらいながら言葉を憶えているのです。

今回の雪との遭遇がそうであったように、子どもたちは、この世界の様々なエッセンスに、こうしてひとつ一つ出会っていく…その初めての出会いの場面に立合うことができる私たちも、なんとドラマティックな経験をしているのだろうかと、あらためて思います。そして、その出会いの瞬間を意味あるものにするための演出力、それが私たち、キューピッド役の腕の見せ所です。

IMG 2754さて、先日は、年長児童が参加した近隣、4つの保育園が集まって「ドッヂボール交流会」。心配だった園庭の雪もすっかりと消えた、今年は当園が会場でした。

今回は、昨年までの園対抗をやめ、交流をさらに深めていこうと、4園の混成チームを複数作り、後半は、一足先に顔見知りになろうと、就学する小学校別のチームで○×ゲームを楽しみました。

混成チームという初めての試みを、子どもたちがどう受け止めるのかと注意深く見守っていたのですが、チームの勝利に顔を見合わせ喜ぶ姿、自チームの担当保育者が他園の先生であっても、駆け寄って、笑顔を交わしながらハイタッチする姿、チームで相談しながら、真剣にゲームに取り組む姿…自然に関わり合えるしなやかさは、期待以上の光景でした。

IMG 2756応援に駆けつけてくれたそれぞれの園の保護者の皆さんは、もしかしたら、どこを応援?という戸惑いもあったのかもしれませんが、対抗戦であった時には、少し過熱気味の声援も気になっていました。どうしても自園の活躍に終始しがちな視点から、「ならば、何を見ようか」と視野を広げ、子どもたちの姿に、それぞれの発見があったのなら嬉しいなと思います。

これは、子どもたちにとっても同じで、わかりやすい対立軸を設けると、仲間内での連帯感は高まるのかもしれませんが、むしろ交流相手との距離は広がるのかもしれません。チームメイトといっても、交流会のいっときでは、打ち解けるまではいかないのかもしれませんが、「さて、どうしよう」といった戸惑いこそが、相手に関心を寄せようとさせるのではないでしょうか。

交流会の終了間際に聞こえた「おもしろかったぁ。」という子どもの声は、交流ならではの「出会い」の楽しさを見つけた言葉。 

私たちが放った今回の矢は、そのハートを大きくは外さなかったのかな。

(平成30年2月号 園だより「ひぐらし」より)

おせちもいいけど

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明けましておめでとうございます。

さて、以前から見たい見たいと思っていた映画に「みんなの学校」というものがありました。3年ほど前に公開され、日本のあちこちで、自主上映会もされてきたドキュメンタリー。私の身近な場所でも上映会など何度かチャンスはあったのですが、なかなかタイミングが合わずに歯がゆい思いをしていました。するとなんとこの年末、たまたま点けたテレビチャンネルで、この映画の放映に出くわしたのでした。ゴロゴロと過ごす年末年始も悪くないものです。

「みんなの学校」は、支援が必要な子も含め、在籍児童みんなが同じ教室で学び、誰もが通い続けることができる学校を目指す…大阪市立大空小学校の日常を追ったドキュメンタリーです。

「学ぶとは、どういうことなのかを考えさせられた。」
大空小学校に赴任直後の若手教員の言葉が印象的でした。どんな子も、みんなが同じ部屋で過ごすというスタイルは、保育園や幼稚園などの乳幼児施設では普通のことですが、それでも、ある程度の発達段階(年齢)によって部屋を分け、クラスを編成しています。なので厳密に言えば、「どんな子も一緒」というわけでもなく、これは、学年ごとには別教室になる大空小学校も同様です。

IMG 78722教科的な学習効果までを考えた場合には、どういったクラス分けが有効なのかは、実は難しい問題なのですが、人間形成も含め、もう少し幅広く「学び」を捉えた時に、その悩ましさはさらに深くなる…この簡単には答えの出せない問いに、真正面から向きあっているから、あのつぶやきが生まれるのかもしれません。

クラスをどう編成するのかといったこと以上に、大空小の実践が語る本質的なメッセージ…それは、「あなたと私は違う人間」という前提を徹底的に貫き、それを乗り越えることで、一人ひとりの居場所を作り、本物の仲間作りをしようということなのだと私は思います。

友だちとトラブルになったある男児に、「あなたという人を、相手に理解させていないから、そうなるの。」と教員が諭す場面が登場します。相手と自分は違うという前提に立つことは、まず、相手の思いや考えを、決めつけず冷静に理解しようとする敬意が必要なのですが、それ以上に、自分を理解してもらうために、自分の心を開いて、相手に見せる「勇気」も求められていくのですね。

同質の価値観や能力でまとまることは、一見うまくいきそうに思えるのですが、それが異質なものを排除することで安心感を得ようとするものであるのなら、そこでの学びは少し物足りないものとなるように思います。

IMG 78712そのまま、ゴロゴロと新年に転がり込んでいくと…次に目に留まったのは、中高年は立ち入り禁止!と銘打った、若者たちによる討論番組。なので、私は見つからないようにゴロゴロと伏せった体勢のまま、こっそりと視聴。

この日は、彼らが社会全体に感じる「根拠なき不安」がテーマ。なんだかんだと叩かれがちな若者たちの、その語りには、鋭敏さと…それ故の苦しさと…そしてある種の優しさが漂っていました。

不安の根源は孤独を恐れること…そう語った出演者がいましたが、これからの社会を模索する手掛かりを、もっと豊かで確かな「他者との繋がり方」に求めている…どの出演者にも共通する認識だったように思います。豊かな繋がりとは、価値観の多様性を前提とした…「あなたと私は違う」ことを踏まえた連帯だと思うのです。そして、安易な気遣いや思いやりといった同調を超え、対話を続ける関係が確かさなのでしょう。

若者と言われる彼らの率直な語りからは、いつも学ぶことが多いと感じます。それは、若者たちの思いを理解するその先に、もしかしたら、物言わぬもっと若者=子どもたちのありようも見えるのかも、という期待があるからなのです。

そしてあっという間の、正月最終日。ゴロゴロと行き着いた先は、かの「君の名は。」地上波初放送。あれはなんと、時空をも超えて人が繋がるという…もっとすごい話でした。

本年も、みんなの繋がりが深まる一年となりますように。

(平成30年1月号 園だより「ひぐらし」より)

師走の訪問者

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私ごとで恐縮ですが、師走に入った途端に体調を崩す中、押し寄せる年末のスケジュールを何とかこなし、ヨレヨレになって、ようやく辿り着いた年末。

「食う、寝る、遊ぶ」…こんなシンプルな毎日を、ただただ送りたいだけなのに、その裏側で、小難しい顔をした大人たちが顔を付き合わせ、なんと複雑な手続きを動かしていくのだろう…世の中って本当に不思議でなりません。

そうした中、先日の餅つきは、餅米を蒸すカマドの火を炊きながら、やっと我に返れたような…入れ替わり立ち替わり、そこを訪れる子どもたちの問いかけに応じるうちに、少しずつ元気を取り戻していくことを感じた時間でした。

何をやっているのか、どうして火を燃やすのか、銀色に光る入れ物は何なのか、釜やセイロには何が入っているのか、訪れる子どもたちそれぞれの興味は、驚くほど尽きません。餅つきとの繋がりに、少しでも気づいてもらおうと、もち米と普通のお米(うるち米)を手に取れるよう並べて置いてみたり、蓋をとって中身を見せたり。そうしていると、何歳であっても必ず、見事なまでに、その子なりの関心に応じて、五感を使い何かを確かめようと真剣に迫ってきます。この湧き上がるような好奇心。教えられる以上に、自ら知ろう、学ぼうとする存在…それこそがやはり、子どもなのだと思うのです。(それを引き出すには、物や人といった周囲の環境=仕掛けが大事なのですが。)

さて、この一年、利用者の方々には気づきにくい部分で、実は様々な動きのあった年でした。

春には、社会福祉法や保育制度に大きな改正があり、vv弱小法人としては、その激変の波を乗り越えるための体制作りに追われました。

また、来年度に実施される10年に一度の大きな教育関連の法改正を見据えながら、今後の保育内容をもう一度自らに問い直してみる一年でもあったようにも思います。これは、これからの園生活や活動の様子を見守っていただく中で、実感してもらえるように、私たちが頑張っていかねばなりません。

そして、園長として、保育者の研修会や保育者養成校で話をさせられていただいたり、専門誌の原稿を書かされせていただいたり、園内の実践やその考え方を、対外的に発信する機会が、なぜだか多い年でした。少し億劫な仕事でもあるのですが、そのおかげで、考えを整理できたり、新たな気づきがあったり、脳内の老化防止になったり…人に伝えようとすることは、自分自身が学ぶことになることを改めて実感しました。

その中で、とある大学からは、「20年後の社会モデル」というお題で何かを話せと…ニュータウン片隅、子どもの居場所に身を寄せる私になんと無茶な。それはちょうど目の前の子どもたちが、成人式を越えた頃だなと、その大きくなった姿を想像した時、ある思いを抱きました。

「コドモとオトナの境目は、一体どこにあるのだろう…」かと。

その頃の彼らを、私はオトナと感じるのだろうか、そもそも、私、そしてこれをお読みになっているみなさんは、いつ頃からオトナになったと感じたのかと。

もし何か一つ、コドモとオトナの違いをあげるとするならば、「育てる」という役割を少しずつ背負っていくのが、オトナと呼ばれる者の宿命でしょうか。それは、コドモと呼ばれる人に対してだけでなく、後輩や同僚、友人…そして周囲のみんなに…何らかの気づきや刺激を与え、憧れを抱かれる存在…それがオトナ。同時にそうしたオトナも、何かから学びを得ながら、育てられている存在でもあるはずです。

「育つ」というのは別の自分に変わっていくことです。何かから学びながら変容し続けるという点において、実はコドモとオトナの境目はないのかもしれません。育てる者が育った分だけ、育てられる者は育つ…とも言えますよね。

カマドの前を行き来しながら、貪欲に何かを知ろうとする姿は、本当に眩しい。でも、私たち大人だって、明日はまた、一味違った自分になろうとする姿は、やはりきっと、子どもに負けないくらい輝いている…それがもう、髪が白くなり始めた人であったとしても。

まもなく、年も変わっていきます。

(平成29年12月号 園だより「ひぐらし」より)

冬の気配を前に

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今年の芝生の種まきは、出遅れた秋雨前線や台風の到来と重なり、生育がもう一つだったのですが、これも致し方のないこと。朝晩の冷え込みに、このまま真冬に流れ込んでしまうのか…もう少し、秋を楽しみたい…そんな思いで芝生をオープンしました。

園内のそこここで、芋掘りをはじめとした、秋の味覚を楽しむ活動が点在する一方、お楽しみ会へ向け、様々な表現遊びが繰り広げられています。昨年とは、また一味違った新たな構成となりそうで…どうなることやら…でも、本番は、実は当日までのプロセス!、楽しんでいきましょう。

さて、年末に、園内の七不思議のひとつ…が存在しています。それは、なぜか、クリスマスイブでもない日時に、突然、サンタが来園してくれることです。子どもたちは、目の前のプレゼントに目が眩むのか、これを素直に受け入れてしまうのですが、私たち職員は騙されません。これは何かがおかしい…ここ数年、この謎について、みんなで頭を悩ませ続けてきた結果、ついにその謎が解けたのです。

「あれは、偽物だったんだ!」

私たちは本当にお人好しでした。今年からは、もう偽物の侵入は許さない、そう決意して、12月24日の夜にやってくる本物のサンタだけを待つことにしました。

ただ、あいにく当日の夜は、みんなで出迎えることはできないのですが、翌朝にはきっと、プレゼントが…だとしたら、立ち寄った痕跡も何か残っているはず…それも、子どもたちと探してみたいと思っています。

今とちょうど正反対の夏の時期。保護者の皆さんに、お泊まり保育を企画していただきました。せっかく園内で一夜を過ごすということで、園舎で肝試しを楽しむのが恒例となっています。

誰もいなくなった2階の暗〜い部屋を巡るコース。かつては、見守り役も含め、私が物陰に隠れて、どこからともなくゆっくりとボールが転がってきたり、小さな物音が聞こえたり…手持ち無沙汰に任せて、そんな演出をしていました。

これは、脅かすというより、ん?何か変?…と不思議さを感じる程度に…そう、こだわったのは「気配」なのです。

ここ最近は、多くの職員たちが参加してくれるため、お化けが登場したり、効果音が入ったりと、賑やかな?「お化け屋敷」となっています。(みんなで楽しむものと考えれば、それはそれでいいのかもしれませんが。)

サンタの来園でこだわっていきたいことも、実はこの「気配」を感じること。
科学的に解明されたものが、目に見えるものだけが、その存在が認められ、「何かを感じた」くらいでは、一笑に付される今の時代。目を凝らせば見えるのかも、耳をすませば聞こえるのかも…もしかするといるのかも…そうした想いは、周りの世界を、そして毎日の生活を、情感溢れるものにしてくれる気がするのです。

そして「まだよくわからないもの」は、「畏れ」となって、私たちに謙虚さのようなものをもたらします。だから、五感を研ぎ澄まし、頭をフル回転させて、感じよう、知ろうとする。わかることの面白さのその一方で、何かよくわからないことが、さらに毎日を豊かにしてくれる…自分を取り囲む世界のそこかしこに、そういった未知なるものが潜んでいて、その一つ一つと巡り会っていく…それが、まさに子ども時代だと思うのです。

勝手にわかった気になっている私たち大人も、そんな謙虚さを、少しでも持ち合わせることができれば、刺激に満ちたあの頃に…戻れるのかもしれませんね。

そしてもう一つ、サンタ周辺の情報筋から、新たな情報が入ってきました!

「彼は、子どもたちそれぞれにではなく、クラスごとに、もっとビッグなプレゼントを考えているらしい。みんなのお願いを、よく相談しておいた方がいい。」

私は、「みんなのお願い」という表現に引っかかりました。もしかすると、これは、「モノ」である必要はないのではないか?
となると、ここからは発想力。サンタを少し困らせるようなプレゼント…お願いして…しまいましょうか。

(平成29年11月号 園だより「ひぐらし」より)

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先日の運動会、今年もあいにくの雨模様で、宮上小の体育館をお借りして実施した会でありました。

園長の日頃の行いが悪いのか、ここ10年ほどを振り返ると、それ以前と比べ、相当な確率で雨天に当たっているような気がします。今年の時期外れの秋雨前線、台風到来を考えても、地球規模で季節の変わり目も揺らいできているのかな…そう考えると、運動会どころか、それよりずっと不安にかられるのですが。

昨年も同じようなことを書いたように思うのですが、毎年のこの時期、園内の大人たちは、毎日、天気予報とにらめっこをしながら一喜一憂、運動会当日の雨天がほぼ確実となると、一様に肩を落とします。それでも、体育館での開催が終わるたびに、「これはこれでいいものだな。」と思うから不思議です。

もちろん青空のもと、大地を蹴って開放感を満喫する運動会が一番なのかもしれませんが、会場のみんなの気持ちが自然と中央に向く、お互いの心の動きが伝わってくる…そういう点では、体育館の方が一枚上手かなとも思います。会場のみんなの「気」のようなものが湧き上がり、それが四方の壁に封じ込められて…時間と共にどんどん充満し膨らんでいく…閉じられた空間には、そういった状態が起きやすいのかもしれませんね。

さて、日本の保育・教育は、伝統的にこういった「行事」を軸に組み立てられてきたという側面があるように思っています。それもどちらかというと、「集団的に表現する場」として成立しているようです。これは本来、特に乳幼児期の場合、「披露したい」「共感してもらいたい」という、子ども自身の自発的な思いが前提となるべきもので、個々の発達や個性に応じて、その程度は様々なはず。まずは自身が夢中になる段階、家族や友だちなど、身近な人に共感を求める段階、いずれ大勢に披露したくなる段階などなど。大切なことは、先を急がず、その時々のステージを十分に経験することなのですが、運動会などの行事は、ともするとこういった個別的な発達や関心を丸ごと押し流してしまう…そんな危うさも合わせ持っている気がします。

実は私たちも、そういった悩ましさや難しさと向き合いながら、行事の内容を少しずつ変容させて来ており、かぜグループの「得意だ走」も、そのわかりやすい工夫の一例かもしれません。ただ、これは運動会でなくてもいいのかなと考えてみたり、0〜2歳児の行事への関わり方も、子ども自身の発達段階を考えると、再考の余地はありそうですし…行事の変容はまだまだ途上です。

そして、12月にはまた、「お楽しみ会」が控えています。運動会が「運動遊び」だとしたら、こちらは「イメージ遊び」、少し強引に言えば、前者が外遊び、後者が室内遊び…でも、それぞれにダンスがあったり、けん玉があったり…いずれにせよ、子どもの自発性や個々の発達に考えを及ぼすほど、それを区別することの必要性もどんどん怪しくなります。

子どもたち一人一人異なるはずの充実感や満足感、見せたいという共感意欲。そうしたものと、画一的な集団性に陥りやすい行事というものを、少しでも高い次元でつなげていきたい…そう願いながら、今年のお楽しみ会も、そのスタイルの変容に挑んでいこうと考えています。

一人一人の毎日こそが大事にされる、成果よりも、活動途中に遭遇した個々に異なる経験が大事にされる…それを目指す時、見せる場としての行事とは、一体どんな意味を持つのだろう…そう問い続ける中で、確かに…「これもいい」と感じた瞬間が、あの運動会にはありました。

きっとそれは、育ちつつある目の前の子どもの姿を、その背後にある園が大事にしようとしているものを、あの場のみんなで共有できた…そんな一瞬があったからなのかもしれません。
私はここに一つの、これからの行事の持つ意味と、目指すべき方向が見えるような気がします。

それは、「園の文化を確かめ合う」場、別の言い方をすると「子どもたちの表現を通して、日々の暮らしぶり(活動のプロセス)に思いを寄せる」場…。

そこを一緒に…目指してみませんか。

(平成29年10月号 園だより「ひぐらし」より)

エースもねらえ

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8月からの天候不順で、この夏の芝生も生育不順。はらっぱになりきれないまま、10月の運動会を迎えそうです。

園内では、今年度から「研究保育」というものを始めています。これは、順番に各クラスの保育活動を、職員間で見合いながら、その内容を振り返り、語り合って深めていこうという取り組みです。またそれが、私たちの独りよがりにならないよう、外部講師も招くことで、客観的な視点も取り込むようにしています。

先日も、3〜5歳児保育を観察し、協議の場(カンファレンス)を持ちました。

当日、子どもたち個々の言葉に丁寧に応じながら、活動全体を進めていく保育者の姿に、私は、十人の言葉を同時に聞きとったと言われる、あの聖徳太子のお姿を重ねながら、見入っていたのですが、その後のカンファレンスでもそのことが話題に上りました。

私たちは、相手の言葉を聞くことで、その考えや思いを知ることができるのですが、反対に、自分の行動の意味をいちいち周囲に説明するものでもないので、他人はその行動の意味を勝手に想像しているものです。

そして、相手が子どもともなると、安易にその行動の意味を決めつけるか、子どもだから意味もないのだろう、と片付ける傾向が強くなるようにも感じます。
だからこそ私たちは、その子の本当の心情は何かを、慎重に洞察していく必要があるのですが、園内のある保育者が「子どもに問いかける」という実践を語ってくれました。

それは、「わからないのなら、本人に問うてみる」という、ある意味当たり前のことなのですが、これを意識的に実践してみると、こちらの想像を超えた答えが返ってくることに気づいたそうです。さらには、わかっているつもりのことでも、あえて問うてみると、実は違う思いを抱いて遊んでいたこともあったとか。子どもの思考を掴むための、簡単だけれど、大事な方法だと気づかされる話です。

「まずは聞くこと」は大事なのですが、それにどう「返す」のかということは、これもまた重要で、さらに難しいことだなぁと、つくづく思います。

子どもの言葉に、何をどう返すべきなのか…「少し考えるから、夕方まで待ってね。」なんて言えない…一瞬で判断し、反射的に返していく行為…まさにこれは真剣勝負。的確で完璧な返しなんて、ポンポンと繰り出せるものじゃない…だから…何度だって振り返る……研究保育だってする…学び続ける…私たち大人だって。

保育者たちが書き込んだ様々な記録や書類は、立場上、私の手元を通っていきます。仕事とはいえ、それぞれが思いを込めたものならばこそ、私も何かコメントを返したくなります…保育の質が、応答の質というならば、私の仕事にだって、この返しの質が問われていることをいつも感じます。

見方を変えれば、会話とはコメントの付け合い、その応酬。かつて、テレビでも見かける某教育学者の「コメント力」という本がヒットしましたが、パッと、何をどう返すのかにも力量が問われるということなのですね。

「どうだった?」も、相当のコメント力が問われる質問です(なので、子どもに対しては慎重に使うべき問い方ですが)。

「旅行、どうだった?」「あの映画、どうだった?」さらには「昨日、どうだった?」といった乱暴なサービスに、どんなリターンを打ち返すのか。そこそこ手短に、かといって「楽しかった」では済まされない…ある種の緊迫感も漂います。自分は何に心動かされたのか…その感性自体が問われているからです。

どうだった?…自分を棚に上げ、心を鬼にして、心で泣きながら…今日も職員たちに投げ掛ける…大好きな言葉です。

(平成29年9月号 園だより「ひぐらし」より)

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梅雨に逆戻りしたような長雨。子どもたちには、少し欲求不満の夏でしょうか。

保育・教育界では、様々な研修が開催されていく季節でもあります。中でも、少し視野を広げて考えてみるような、少し掘り下げてみるような、すぐに答えが出せないような…そんな講座、講義、セミナーなども増えるような気がします。じっと思いを巡らすには、この長雨も悪くない…とまでは思わないのですが、なぜか今年は、ことさら印象的な「言葉」を私の中に残している…夏であります。

もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日しようとしていることを、私はしたいだろうか?

某多国籍企業創設者の有名なスピーチの一説ですが、この夏のある講演での引用を改めて聴きながら、「したい」という言葉を「すべきこと」に置き換えて自問した言葉でした。どうして人は、こんなシンプルな考え方で、ためらうことなく行動ができないのでしょうか。そして、
「今日しようとしていることを、子どもたちはしたい(すべき)だろうか?」とさらに自問は続くのでした。

私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ。

この夏に見た映画の中で、主人公が語っていたセリフ。こんな風に考えると、巻き起こる毎日の出来事に、誠実に向き合えるのかも…そう思いませんか?

自分は大人なんだ、という思いで行動するのが子ども。ただ、大人から与えられたものを、まだうまく使いこなせないのだけれど、それでも、それぞれの年齢の中のマックスで…大人。

著名な脚本家の言葉(一言一句、この通りではなかったかも。こうした人の話が聞けるのも、夏ならでは)。
10歳の小学生たちの学校生活を、大人だけで演じる舞台作品を作るにあたり、実際の小学校生活を見学した際に感じたこと…なのだそうですが…この感性と脚本家ならではの表現力に脱帽しました。

「大人から与えられたもの」とは、大人側の期待やそれに応えるための技術、そして大人によって作られた今の状況や社会環境などを指すのだと、私は思いました。与えられた状況に、与えられたものを自分なりに駆使しても、まだまだうまく立ち回れないけれど、それぞれの育ちの中で獲得した「経験や能力」の範囲の中で、精一杯大人であろうとしている…そんな子ども観なのだと思うのです。

これは、幼児期の子どもたちの「ごっこ遊び」にも、顕著に現れる姿です。お父さんやお母さん、運転手、お姫様、正義のヒーローなど、ごっこの中の子どもたちは、自分の憧れ、理想の姿を演じようとします。現実の世界の自分とは打って変わって、ごっこの世界では、「です・ます」を使ってルールを説き、極めて道徳的に行動しようとします。ちょっと背伸びをし、精一杯、社会的な期待に応えようとする姿が、そこにはあるように思います。

それにしても、子どもと大人の境界は、一体どこにあるのでしょうか。その時々の自分の力の範囲の中で、精一杯大人であろうとする姿は、幾つになっても終わりがないことのような気がします。
年齢を重ねることが、たまたま「親」になったことが、イコール「大人」であることでもなく…「よき大人とは?」と問い直しながら、少し、背伸びを続けること…子どもたちに、見習わなければいけませんね。

モノが欲しいのではない。『遊び』が欲しいだけ。

これは、あるおもちゃ研究家の言葉でした。他の子が遊んでいるおもちゃを、せっかく奪い取ったのに、早々にそれを放って別の遊びへ…1・2歳くらいの子どもたちによく見られる光景です。
つまり、楽しそうな様子に魅かれて、その「楽しさ」を奪い、手に入れたつもりが、おもちゃ自体に「楽しさ」がある訳ではなかった…ということなのです。そこで、「楽しさとは何か」の体験をサポートしていく大人の存在が重要になってくる、ということなのですね。

さてみなさん、本当に欲しいものは…今その手の中に…あるものですか。

(平成29年8月号 園だより「ひぐらし」より)

遅まきのひまわり

スケッチ

気づかぬ間に梅雨は明けていたようで、本格的な夏空の下、水遊び中心の毎日が始まっています。

今年の6、7月…園長として、例年にはないくらいのせわしなさの中で、頭をパンパンにしながら過ごしていたからでしょうか、ある夜、布団の中で、「あっ!」と声をあげました。それは、とある園長から、「種を増やして収穫してね。」と、ひまわりの種をもらっていたことを思い出したから。(これは、「福島とみんなをつなぐ、ひまわりプロジェクト」という活動。http://himawariproject.com/whats.html)

怠け者の園長は、それを誰かに撒いてもらおうと、何の説明もせず、S木主任のデスクにとりあえず置きっ放しにしていたのです…それも2週間くらい前に。そのひまわりの種は、不思議な事に、真っ青に染色されているため、「なにこれ、気持ち悪い…。」と捨てられてやしないかと、なおさら心配になったのでした。

「ああ、これですね。」

翌朝一番に声を掛けると、ちゃあんと保管をしてくれていた、マジメな彼女。「何だろうと思っていたんですよ。」と言いながら、ひと仕事を請け負ってくれました。
とりあえず、安堵した無責任な園長は、また忙しくも虚しい雑務へと、舞い戻っていったのでした。

Blog IMG 0211そして、他園から施設見学者を迎えたある日。階段の掲示板を眺めながら一向を案内をしている時…一つの活動写真に、ふと目が止まりました。
なっなんと、それは、あの青いひまわりの種!しかも、あの昔から親しまれている絵本「そらいろのたね」を絡めながら、子どもたち共に「ひまわりプロジェクト」を進める様子が語られている…まさかこんな展開になっていたとは…

その後の種の行く末のことなど、またしてもすっかり忘れていた不届きな園長は、多少の後ろめたさを感じながら、少し動揺しておりました。興味深げに掲示物に見入る見学者に、それを悟られないよう「青いひまわりの種をもらいましてねぇ…」と平静を装いながら、先へと歩みを進めました。

たまたま、私に託されたひまわりの種。忙しさにかまけて、すっかり人任せにしていた事もどうかと思うのですが、そのおかげで?、人知れず、園内の片隅に撒かれるだけの運命だったひまわりが、私の想像を超えた道を歩んでいたのでありました。

保育活動とは、きっとこうした偶然が重なり合って生まれているものだと、改めて思います。様々な人や物が行き交い、色々な出来事が交錯する園内で、何が拾われて、何が見逃されていIMG 2035るのか…神のみぞ知ることなのかも知れませんが、たまたま拾われた偶然を、子どもたちの新たな経験へと結びつけていく保育者たち。そこに、何らかの意味と期待を込め、子どもたちの前に再提示された時、ただの偶然と思われた出来事が、経験すべき「必然」へと生まれ変わる瞬間が訪れるような気がします。

子ども、そして人が育つために、絶対に必要な経験とは何であるのか…森羅万象に満ち溢れるこの世界から、それを選び出し、優先順位を付けることは難しいことです。それよりも、たまたま出食わした出来事を、価値ある経験へと位置づけてくれる人、そういう人と巡り会うことの方が、ずっと重要なことだと思うのです。

ただ、その巡り会いもまた、偶然の産物。となれば、自分は、子どもたちにとって、巡り会う価値のある大人になり得ているのか…自問自答は続いていきます。

ただ、今言えることは、種との出会い一つに、これだけ心乱されているようでは…まだまだ…ということでしょうか。

(平成29年7月号 園だより「ひぐらし」より)

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