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秋とレイン棒

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爽やかな秋晴れの日、落ち葉に覆われた園外へと出かけた、にじぐみ(1歳児クラス)の子どもたち。この年齢ならではの、子どもたちの姿を追ってみました。

見る・聞く

今月の題字の背景写真…みんなで飛び去る飛行機を見送っている姿なのですが…これもこの時期にグッと伸びてくる「共同注視」という育ち。同じものを見ながら言葉を交わしながら…やがて他者と、思いを共有できるようになっていくための、重要なステップなのです。
今年は、子どもたちの「音」への関心に着目して保育を組み立ててきた、にじぐみの担任たち。カサカサと風に鳴る葉音に瞬時に気づき、さっと樹木を仰ぎ見た子どもの姿を見て、だからなのだね、と納得しました。

握る

ものを握る動作がしっかりしてくるのもこのくらいの時期。この日も、ほぼ全員と言っていいほど、棒を握っている瞬間がありました。そして、その棒で、落ち葉をかき分けたり、土に差し込んで見たり、何かを叩いて音を出してみたりと、棒を「道具」として使い始めていることが本当によくわかります。
そして反対に、周囲に構わずただそれを振り回す友だちには、それを諌める子までいて…道具として使うことの意味がわかることと一体的に、こうした道徳観というものも、少しずつ育まれていくのだなと感じました。

登る・滑る

そこに段差があるから…これが子どもたちが登る理由。良くも悪くも大人サイズの街設計。そこを移動するために乗り越えるべき障壁は、子どもにとっては高く、そして何とかしてそれを越えたいという思いは、それ以上に大きい。
全身全霊を投じて段差に挑んでいく姿を見ていると、バリアフリーとは、果たして子どもにとってよいことなのかを、考えさせられてしまいます。
高さが見えてしまう分、「登れても降りれない」のは、大人も同じかもしれませんね。だから子どもは「滑る」のです。

渡る

敷石の上、幅の狭い小径、盛り上がった尾根など、特別なルートを探しては辿る…そんなことが面白くなるのもこの時期です。
歩行が安定し、体のバランスが取れて、ぴょんと小さくジャンプができるようになってくると、それを使いこなしてみたくて、たまらなくなるようです。敷石を飛び移っていく時、自分なりの掛け声をつぶやいたり、「いち、に、さん…」と何と、8まで数えている子もいて驚きました。言葉は、こうした身体感覚と共に刻まれていくことを実感します。

子どもは、今、伸びようとしている能力を、盛んに使おうとすると言われています。なので、個々の発達に応じるためには、子ども自身で選ぶことができて、それに存分に浸れる遊び環境が大事になるのです。
では、そのために必要な大人の能力とは何でしょう。それは、急かさず、先回りせず、待ってあげる力なのかもしれません。まだまだおぼつかない足取りに、少しヒヤヒヤする思いと…戦いながら。

(平成30年11月号 園だより「ひぐらし」より)

●ごと▲する■

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かぜグループ(3〜5歳児)だけで実施する初めての運動会。(0〜2歳児のご家庭は、ぜひ応援に来てください!)

昨年までも、演目ごとに、子どもたちの選択やアイデアで構成するようなことはあったのですが、このせっかくのリニューアルを機会に、新たな挑戦として、今回は、年長児を中心に、運動会の企画・構成の段階から全面的に参画してもらえないだろうかと考えてみました。

子どもと相談しながら、日々の活動を展開したり、一緒に環境を作ったりすることは私たちの日常です。ですが、保護者も参観する行事全体を、子どもたちに相談する経験は初めてなので、期待や不安、手応えや戸惑いが交錯する、私たち保育者にとっても、いつも以上に新鮮で刺激的なプロセスを歩んできました。

担任以外の保育者も関わりながら、演目の企画・構成も含めた様々なプロセスの記録…これ全体が「運動会そのもの」なのですが…1階ホールに掲示、ファイリングされていますので、ぜひご覧になってください。

また、その裏側で共に歩んだ保育者たちの思いを届けたくて、関係者たちに緊急取材を試みましたので、お読み下さい。

「夢中になれる毎日」を土台に運動会を考えた時、子どもたちの「参画」は重要だと感じました。まずは、運動会に対する保育者の率直な思いも含め、子どもたちに真正面から相談を投げかけてみたところ、過去の運動会を思い返しながら、「みんなを集める方法」「親子(準備)体操の内容」「親子競技の内容」「一般(かぜグループ以外)競技の内容」が検討事項として上がり、それを4グループに分かれて具体化していくことになったのです。また、何を披露しようかとの問いかけに、17種の遊びが上がったため、それらをひと月ほどみんなで遊び込んで、それぞれが出たい種目を選んでいくことになりました。
どのように参画してもらうのか、その方法にはまだまだ検討の余地はあるものの、子どもと保育者がある種対等に物事を決めていく面白さと、真正面から問えば、子どもたちは想像以上にしっかりと答えてくれる…そんな手応えを感じる瞬間がありました。
(保育士 A 男性)

「みんなを集める」というのは、子どもたちの中でどんなイメージなのだろう…それを探るための投げかけを進めるうちに、ポスター、招待状、プログラムなどにつながり、グループの方向性が見えてきて…保育者が誘導してしまうことも簡単な状況であるだけに、少しホッとしたのが正直な気持ちでした。
プログラムの製作では、グループメンバーでイメージが共有できた途端、活動がスムーズに進み始め、全員で見通しを持つことが自発性の前提となることを実感しました。他のメンバー以上に、プログラム作りに夢中になる一人の子の存在が、この活動を引っ張っていってくれたような気がします。個々に関心の度合いが違うことが様々なリーダーを産み、多様な活動が広がるのだなと思いました。
子どもたちの参画がどこへ向かうのかが不安だったのですが、こういったダイナミックなプロセスを一緒に楽しもうと気持ちを切り替えてから、活動の見え方が変わっていきました。
(保育士 B 女性)

メンバーそれぞれの「親子(準備)体操」のイメージを自由に語り合う中で、過去の経験が想像以上に子どもたちの中に残っていることや、話題がそれることなく意見交換を続けている姿に驚きました。さすがに何か手がかりが必要だろうと、例年参考にしてきた親子体操の冊子を渡し、そこからみんなで体操の種類を選んでいくことにしたのですが、そうした提示もせず、もっと発想を広げてみてもよかったかな、と後から反省しました。
選んだ体操がうまくできるのかを、実際にやってみようと声が上がったり、選んだ体操の実施順を決める際にも、提案理由を説明しながらやり取りを進める子どもたちの姿を、頼もしく感じました。
保育者は極力口を挟まないことを心がけたのですが、そんな心配はよそに、作り上げることを楽しんでいる子どもたちの姿が印象的でした。
(保育士 C 女性) 

想像を超えた発想力に驚いたのですが、運動会特有の制約で、なかなか種目内容が決定しない状況にもどかしさを感じました。途中、年下の子たちのことも考えて欲しいことを伝えると、「これで決定だね。」と言っていた子が、ハッとした顔をして、思案し直す姿はさすが年長児だなと思いました。
意見が対立する場面もあったのですが、みんなが楽しめることが大事なのだと懸命に説得を続ける子の姿を見て、介入せず見守る覚悟を決めました。互いの意見を認めながら、なんとか着地点を見出そうとする子どもたちの姿に、信じて任せていけばいいことを実感しました。
(保育士 D 女性)

アイデアが次々と広がり話が盛り上がる一方で、どこかへ収束するのかといった不安がよぎりました。話が煮詰まり「次回までに考えておこう」と切り上げても、次のミーティングには、紙にアイデアを書いて持ち寄ってくれる子どもたちの姿が、私の力にもなりました。
「ハイハイ」を使った種目に落ち着きそうになった頃、早く手足を動かす作業に移らせてあげたいと思い、子どもたちの発想に、少し強引に保育者の考えを結びつけたかなと後から反省。子どもたちの溢れる思いに押され、その舵取りの難しさを感じる場面もありました。
(保育士 E 女性)

IMG 88922今年の4月、国の教育施策の改訂によって、保育園や幼稚園などの幼児教育と学校教育が、ある言葉で一本に繋がりました。それは、「主体的・対話的で深い学び」という、ちょっと小難しい言い回しの文言でした。

一方的な知識や技術の受け手としてではなく、自分たちで関心を持って、他者と語り合いながら、実感を通して学んでいこう…ということ…これでもまだ難しいですね。

例えば、AI時代に入ると、今の職業の半分がなくなると言われていることを考えると、仕事は探すのではなく、作る時代に入っていくのかもしれません。温暖化はどうするのでしょう、未だ止まぬ戦争はどうするのでしょう、経済的な格差はどうするのでしょう…こうした諸問題を背景に、今の教育観は形作られているようです。正解を知ることではなく、新たな正解を作り出す力が求めらている…そんなビジョンを感じます。

物事に対して、主体的であるというのは、そこに積極的に関わり、自分の思いがそこに影響を与えていくということ…つまり、それが参画するということなのですが、参画した経験がなければその術もわかりません。毎日の生活の中に参画する習慣がなければ、さらに言えば、思いを問われ、声を聞き取られ、それが位置づいていく経験の積み重ねがなければ、物事を主体的に考えていくようになることは、難しいことだと思うのです。

今回の試みも、まだほんの小さな一歩です。私たちの聞き取り方も荒削りで、まだまだ未熟です。それは、保育界で、教育界で、社会全体で、積極的に子どもたちに参画を促すことをしてこなかったから、とも言えるような気がします。

みんなの参画が溢れる場所には、「自治」が生まれます。子どもたちによる保育園の自治が、どこまで可能なのか…私たちは、それを探しに出かけてみたい思っています。

丸(●)ごと参画(▲)する資格(■)…それが、子どもにもあるはずなのです。

(平成30年10月号 園だより「ひぐらし」より)

百花繚乱

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はなぐみ(2歳児)の部屋へ入ると、そこにはせっせとそれぞれの遊びに勤しむ、朝の子どもたちの世界がありました。

IMG 8664百聞は一見にしかず…私がクラスを訪れた…たった2時間少しの間に、屋内外に、こんなにも咲き乱れたたくさんの「遊び」の価値は、私の拙い言葉などでは伝わらない…そこで、その変化とバリエーションを、写真で追ってみましたので、ちょっと我が子を探すのを止め、画面の子どもの心情に思いを馳せてみてくださいね。

保育室にバランスよく散らばる担任たち。そこを拠り所に、気の向くまま、子どもたちの遊びが展開されていきます。それぞれに、ある程度の大人からの刺激や、アドバイスを得ながら、遊びを継続させ深めていく…この姿が2歳児なのだなと、部屋全体に漂う心地よさを感じながら眺めていました。

IMG 8711それでも、集団生活となると、いつもいつも全員に応じ切れないジレンマもあるのですが、監視や介入もなく、うまく放っておかれることもまた、子ども同士の

関わりやよき葛藤を産むためにも、大事なことのように思います。来年度のかぜグループでの生活に向け、どこまで関わり、どこから放って置かれるのがよいのか、その塩梅が難しいところなのです。  何かが「できる」前に、何かを「考える」力を育てたい…そのためには、見通しが持ちやすく、わかりやすい毎日も大事だけれど、困らせない程度に迷わせる…2歳児なりのそんな場面も大事になるのかな、と考えたりもしました。

そして、様々な見立て遊びやごっこ遊びに夢中になり、「つもり」の世界を精力的に生きていくのもこの時期で、保IMG 8758育室にもそれを支えるための、様々な仕掛けが目にとまりました。「つもり」の世界では、興味深いことに、どんな子もその役柄を模範的に演じようとします。実生活ではまだ実践できなくても、周囲からは、どんな振る舞いが期待されているのかは、もうわかり始めているということ。「つもり」の世界で、客観的なもう一人の自分を育てながら、社会で生きていくための練習を始めているのです。

それをさらにバックアップしているのが、この時期の爆発的な言葉の発達。ここまで言葉のやりとりができるようになってきたら、そりゃごっこ遊びも楽しいよなぁ…この日もそれを実感したのでした。

IMG 8759私たちの保育内容に終着点はないわけですが、保育者の手練手管の前に、まずは子どもたちのこの自発的で、挑戦的で、多様な経験があれば、その育ちを後押ししてくれているような気もするのです。

2歳児が、2歳児らしく生きることの価値…それを考えさせてもらえた時間でした。

 

【百花繚乱】ひゃっかりょうらん
いろいろの花が咲き乱れること。転じて、秀でた人物が多く出て、すぐれた立派な業績が一時期にたくさん現れること。

(平成30年9月号 園だより「ひぐらし」より)

夏の仲間と暮らして

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この猛暑も、ちょうどお盆を越えた週末は、中休み。そこに流れ込んで来た秋の空気に乗って、園庭にもトンボが飛んでくるようになりました。毎年、このトンボたちの群舞が、誠美の夏の終わりと、秋の訪れを運んできてくれるのです。

しか〜し、そんな感慨をよそに、視線の先には、網を片手にいつもの倍の速さで駆け回る一群が。セミ捕りには少し飽きてきたこの頃、新たなターゲットの登場に、にわかに色めき立つ子どもたち。

ひと所にじっとすることの少ないトンボの捕獲は、セミよりも数段難しいと思うのですが、それでも、ひとりの子が「ほら!」と私の目の前に差し出された手には、指の間で羽が大きくひしゃげた、少し苦しそうなトンボ。

よくぞと関心しながらも、あの羽で、再び飛び立てるものなのか…いや、そもそも放してはもらえたのか…あのトンボのその後の運命が、少し気になります。

園の敷地には、私たちの想像以上に、様々な生物が暮らしていて、そういった生物との出会いや関わりが、子どもたちの毎日を本当に豊かにしてくれます。

畑付近には、ここ数年大きなガマガエルが住みついているのをご存知ですか?毎年初夏の夕暮れ、それも園を閉める頃になると、草むらから飛び出してきて、戸締りをする職員たちを驚かせています。それ以外の時期は、一年の大半をどこかに隠れて過ごしているのですね。

ベビーカー置き場のある倉庫付近は、トカゲたちの住処になっているようで、臆病な彼らは、ちょっと人通りの少ないあの場所が都合がいいようです。

この夏は、以前ご紹介した芝のポット苗を、駐車場で育てていたのですが、実はその芝生の茂みに、そのトカゲたち数匹が住みついていたのです。いつも水遣りをするたびに、驚いて飛び出して来る…可愛い奴らでした。(子どもたちに内緒にしておいたのは…武士の情けです。)

特に夏の間は、不運にも捕獲された様々な生き物たちと、私たちは一緒に暮らすことになるのですが、それにしても、子どもたちの「捕獲したい」、「飼育したい」という思いは、一体どこから湧き上がって来るものなのでしょうか。DNAに刻まれている本能なのでしょうか。

「自然環境や生命を大切にする」という点では、まずそれらと出会い、関わっていく必要があるので、捕獲や飼育は大いに結構なのですが、飼育ケースであるが故に、子孫を残す事なく短命に終わる姿を目の当たりにすると、これをどう考えるべきなのかと、迷いも生じます。

ずっと幼い子どもになると、アリの行列を踏み潰してみたりという、少々残酷にも思えるところから、生命との関わりが始まるという側面もありますよね。

他の生命の犠牲に生かされる…私たち人間も、その連鎖の輪の一員なのですが、こうした子どもならではの、ささやかな殺生くらいは許容されているのかもしれませんね。将来、この連鎖の輪のよき担い手になるための準備として、少し乱暴で、大人がハラハラするような生命との関わりも、実は必要なのかもしれません。

以前ご紹介した研究保育で、4・5歳児クラスの保育を観察した時のこと。ある虫取りの場面が、午後のカンファレンスで話題に上がりました。

「この年齢になって、なんの躊躇もなく、虫を潰している姿があるとしたら、それを子どもらしいと言って、手放しで肯定はできないのではないか。」

との発言…もちろんその通りなのですが…私は瞬時に、以前に聞いた子どもの声を思い出していました。

「先生、あそこに蜂がいるんだ。シュー(殺虫剤)で、やっつけて!」

園内で巣作りを始めていたならまだしも、たまたま通りかかった蜂に対しても「駆除」を求める様子は、私たち保育者を含め大人たちが、安易な殺生を繰り返す姿を見ているからなのではないか…と少なからずショックを憶えたのでした。

私が、園庭の雑草を抜きながら、いつも考える事は、芝と雑草の違いは何なのか…ということ。雑草という名の草がないのと同じように、害虫という名の虫もいない…徘徊する蜂は、距離をおいて見守れば、向こうから攻撃することはない…こちらがうまい対応をとってあげれば、それは害虫でなくなる…では、うまい対応って何?問われるならば、私は、「ほどほどの共存」と答えたい。
周りの豊かな自然と生命に感謝をするのなら、室内を這うアリやクモやゴキブリにだって、少しくらい軒を貸してあげてもって…思うのです。

人間と自然や生命との関わりって、綺麗事だけでは済まない、難しさがあります。こうしたジレンマに悩み続ける事が、連鎖のピラミッドの頂点に立つ者の責務なのかもしれませんね。そして、この正解のない課題に向き合い、粘り強く考え続ける力をつけることが、これからの子どもたちの学ぶ意味だと思うのです。

例年通りなら、そろそろ、夕闇降りる園庭を、コウモリが舞い始める頃なのですが…ご存知でしたか?…これも、食事にはもってこいの場所だからかと。

(平成30年8月号園だより「ひぐらし」より)

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連日の最高気温の記録更新。それを知ってか知らずか、おやつを食べ終わると、園庭に駆け出していく子どもたち。その後ろ姿と窓越しに広がる真っ青な空を交互に眺めながら…今日は、部屋で過ごすべきなのか…まさかこんなことを案じる時代が来ようとは。昨今の夏はジレンマの季節です。

そして今、誰もが気になっているのが毎日の最高気温。このタイミングに乗じて、玄関脇にちょっと大きめの温度計をぶら下げてみました。

今日は何度かなと覗き込む大人に…きっと子どもはこう問いかけるはず。

「これ何?」
(おおっと…温度ってわかるかなぁ。)
「温度計。赤い線が高いほど暑いの。」
「赤い線?」
「こっちからだと見えるよ。」
「ほんとだ。横の10とかは?」
(そりゃ気づくよねぇ…ええっと…)
「赤い線のここ、30超えてるでしょ…それで、ひとつ…ふたつの線を超えているから、今は32度、だから暑いんだね。」
「どうして赤い線、動くの?」
(ええ!どうしてって…)

とまあ、ここまで問われるかはわかりませんが、年齢やそれぞれの理解、興味に応じて、様々なレベルの質問が飛んでくるはずなので、それを何とか打ち返してみてくださいね。

そういった時に、「この説明は、まだ少し難し過ぎるなぁ」と感じることはよくあることですが、人間とはよくできたもので、子どももあまりにも自分の理解を超えた返答は、すぐに諦めて深追いをしないものです。また、花が咲く理由や鳥が空を舞う理由にこだわらないように、あるがままを受け入れていく姿もまた子どもです。なので、理解の有無にはこだわらず、精一杯答えていれば、その取捨選択は子どもが勝手にやってくれます。一見不毛に感じるやりとりも、続けていれば、いずれ伝わる日が来るのです。

IMG 8440それよりも、大人自身がそのことに関心があること、心動いていること、面白がっていることを表現してあげることが、ずっと大事なことだと思うのです。

読み取った温度を読み上げながら、「今日も暑いねぇ。」と呟く姿を見ているうちに、温度計の持つ意味や役割を、子どもたちは少しずつ知っていくのです。やがて、呟かれている数字は、どうやら板に書かれている数字と関係があるらしいことに気づき、目盛りの読み取り方を尋ねられるかもしれません。そしていずれそれは、長さを測る定規の使い方にも生かされていくことでしょう。

大きい・小さい、長い・短い、多い・少ない、重い・軽い、暑い・寒い、硬い・柔らかい…この時期の子どもたちは、量を自分なりの感覚で、主観的に表現しています。なので、みんなで「長い」棒を集めても、その長さはまちまちなのですが、「はかる」ことができれば、それぞれがイメージする長さを、より正確に共有していくことができます(厳密性)。

また、料理の塩加減のように、量を測って投入すれば、いつも同じ味を作り出すことができます(再現性)。

IMG 8518観的で曖昧で混沌とした乳幼児の世界を脱し、客観的で厳密で秩序ある文明世界へ駆け上がっていくために…「はかる」ことは大事なパスポートひとつのような気がします。

ただ一方で、「だいたい」「たまたま」「自分なりに」が許されなくて、たまに窮屈に感じる大人社会から見ると、乳幼児らしいあの「いい加減さ」が、とても眩しく見えるのですが。

先日、専門家の指導の元、親父の会のみなさんの力を借りながら、芝生のポット苗(苗床で育てた芝生)を、園庭の夏芝が剥げている箇所に移植していきました。

移植した芝は、今夏は十分に伸び切らなくても、その根は残っていて…来夏にまた勢いづき…これを3年繰り返せば、芝生の隙間は埋まるとのこと。目先の育ちに気を取られず、目指すのは、3年先の根っこの育ち…なるほど…芝の世界もそうでしたか。

強い日差し、滝のような汗、最後のアイスキャンディー…この夏のひととき…親父たちに、ありがとうを。

(平成30年7月号園だより「ひぐらし」より)

「園暮らし」が始まる

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生えそろった芝生を掘り出して、細かくちぎって…子どもたちに手伝ってもらいながら、駐車場脇に芝生の苗床を作りました(下段の写真)。これを7月の下旬くらいまで育てて、土の露出した園庭に戻していこうという算段です。芝生の赤ちゃんを大事に見守ってください。

専門家からこういった方法を聞いて、半ば興味本位でトライしてみることにしたのですが、個人的には、多少芝生がハゲていようが、使ってなんぼの園庭なので、あまり気にしないのです。マメに雑草を抜け、芝を刈れ、肥料をやれ…彼らは口うるさいのですが、お天気との相談もあるので、意外に時間は取れないもので、結果的にそこそこになってしまうものです。

倉本聰という脚本家をご存知でしょうか。彼の書いた「北の国から」というテレビドラマの撮影を始めた頃、主人公の父親が、懸命に畑作業を取り組む場面を見て、もっとダラダラとのんびりとやるよう演技指導したそうです。既に北海道に移住していた彼は、本物の農作業のありようを実感していたからでした。

頑張り過ぎないことが、長続きの極意…と言い訳をしながら、伸び過ぎた芝刈りに勤しむのが、この季節。

さて、いつでも保育を見学してください…それが誠美流なのですが、とはいえ、何かきっかけが合った方がと、年間に「保育参観週間」を設けています。(なので、いつでも参観できるのですよ。)

そして、それをもう一歩進めて、第三者(参観者)としてではなく、保護者の方も一緒に園生活をしてみませんか?という試みを、今年度からスタートすることにしました。題して「園暮らしの日」。

他園では、「保育参加」といった「他児を見守る保育者の立場を体験してみる」というニュアンスを帯びた呼び名がつくことが多いようですが、まずはあまり構えずに、子どもたちと一緒に暮らしてみよう、一緒に生きてみよう、そこから何かを学んでみよう、考えてみよう、そんな思いを「園暮らし」に込めてみました。

ゲストとしてではなく、共にひとつ屋根の下で過ごす生活者として、いっときを過ごす仲間として、我が子以外の子どもたちと関わIMG 2957りながら、生活全般をお手伝いいただきながら、自然体で過ごしてもらえればと思っています。
3〜5歳くらいのクラスでは、「参観」の日であっても、時おり、子どもたちと楽しそうに関わっている保護者の姿を見かけます。その夢中になっている姿を見たある担任が、「子ども側の目線に立ってもらうことが、保育参加の意味か」と書いた記録を読み、なるほどと思ったことがありました。サポート役の大人の立場を体験しているようで、それを通して「子どもの立場」を学んでいる…そこが本質なのかもしれません。

(一般社会と違って?)子ども中心の、子ども本位の小さな社会だからこそ、見えるものがある、大人社会で失いがちな大切なものが見えてくる…。

新入園児には、慣れ保育という期間があります。近年、SIDS(乳幼児突然死症候群)が注目されるようになり、乳幼児施設では、数は少ないのですが、その3割が、利用開始1週間以内に発症しているというデータもあります。これは、環境変化による過度なストレスが背景にあるとも言われていて、「慣れ保育」のあり方が、ますます重要視されるようになって来ました。(当園でも、慣れ保育期間の初期に、親子で園生活を始めるというステップを入れています。)

保護者がいない時は保育園で、保護者がいる時は家庭で…もちろん、致し方ない部分もあるとはいえ、こういったわかりやすい分断(大人たちの都合?)に、実は子どもたちは少し翻弄されているようにも感じます。

親子で過ごす保育園、大人の居場所の保育園…すでに別棟の「子育て広場」では実現されていることですが…ここにも、これからの子育て環境の行方を考えるヒントが隠れているように思います。

特に、参観との違いを実感しやすいのが、0〜2歳児かもしれません。クラスそれぞれのタイミングでスタートのお知らせを出していきますので、ぜひお時間を作っていただき、いっときの園暮らしを体験してみてください。

(平成30年6月号園だより「ひぐらし」より)

園長保育

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初夏の爽やかな風が、園庭を駆け抜けていきます。歳のせいか、真夏のあの湿った空気にいつ入れ替わってしまうのだろう、と少し先を案じている自分こそ、「その日暮らし」がなっていない。季節を問わず、毎日のように園庭に飛び出していく子どもたちにまた、教えられています。

最近、4・5歳児クラスの保育をゆっくりと観察する機会がありました。当園ではこれを、研究保育と呼んでいます。活動終了後には、そのクラス担任と観察した職員、そして、外部から招いた保育の研究者にも参加していただき、この日の保育の意味を検証し、ディスカッションする時間を設けています。

その日は、小麦粉粘土にまつわる活動が繰り広げられていました。子どもたちが、過去に経験したスライムや紙粘土に、とても興味を持っていたことから、このひと月、小麦粉粘土遊びを幾度となく楽しんできたことや、その中で、感触やその可塑性(形を自由に変えることができること)を楽しみ、小麦粉と水の調合を通して、状態や色の変化に関心を持ち、計量することを通して、多い・少ないの先にある、測ることの意味に気づき始めている…といったことが、事前に担任から配られた資料に綴られていました。

今回の活動の中に、小麦粉と水の調合を、自分たちで試行錯誤してみる、というねらいがありました。うまく配合のバランスが取れたグループは、見事に粘土遊びに突入できるのですが、水を入れ過ぎたグループは、白濁した水溶液に…。

しかし、実はここからが見ものでした。水溶状になってしまった一群は、担任に訴えるわけでも、それを嘆くわけでも、諦めて全く別の遊びに移るわけでもなく、目の前のボウルの中で揺れる液体に吸い込まれるように、あっという間に、色水遊びに没入していったのでした。そう、失敗こそがスタートだったのです。

色を足して変化を楽しむ者、水を足して量の増減を楽しむ者(メートルとかグラムとか、どこかで見聞きしたのであろう勝手な単位で、量を表現していました。)、小麦粉混じりの粘度のある水であるため、ストローでブクブクと吹いた泡が消えない様子が、また面白いようで。担任が用意していた、様々な素材や道具を持ち出して、会話で情報を交わしながら夢中になっていく子どもたち。
これは、水遊びを楽しんでいるようでいて、実は水の性質を確かめている行為でもあるのです。(これを探索的な活動と呼んだりします。)楽しさの根底には、常に発見があることがよくわかる場面ですね。(この背景には、活動中の子どもたちの様子に応じながら、活動の方向性に刻々と修正を加えていく、担任の判断がありました。)

そして、隣の子の面白そうな行為や、遠くの声を聴き合い、それを真似て取り入れ、影響し合っていくことで、活動への熱気が部屋に充満していくようでした。これが、それぞれの発見や成果を共有し、学び合っている、ひとつの姿なのだと思います。
また、それらの行為や子どもたちの言葉の中に、これまでの経験や、ここ数週間で得た小さな知識が、たくさん散りばめられていることにも気づきました。

同じ遊びに取り組んでいても、それぞれに違う経験があることにこそ、意味がある…それが集団活動の本質のような気がします。

最後に、もうひとつ印象的な場面に出会いました。それは、片付けの場面。たくさんの道具や粉と水で汚れた部屋を、むしろ遊んでいたときよりも真剣な顔つきで、洗って、掃いて、雑巾をかけて…その黙々と取り組む姿に、私は思わず「楽しいの?」と声を掛けたほど。

片付けによってさっぱりとする感覚、部屋の状態が変化していくさま、そして道具を使いこなしながら、それを自分の力で実現できるという有能感…自分を使ってみたい、という思いが伝わってきました。これが、この4〜5歳という年齢の育ちなのですね。

私たち大人は、これを遊びとは分けて捉えがちですが…自分の能力を使ってみる、確かめてみる、そして役立ててみる…という点で、子どもにとっては、遊びと何の違いもないのかもしれません。

遊びと仕事…私たちが、これを分けた日々を送るようになってしまったのは、いつの頃からだったでしょうか。

すると、せわしなく立ち働く子どもたちの向こう側で、壁際の椅子にちょこんと腰をおろし、みんなの様子をぼうっと眺めている、二人の子が目にとまりました。聞けば「休憩中」とのこと。周囲はそれを咎めることもなく、それならそれで仕方がないと、その行動を受け入れているように見えました。

等分であることが公平なことなのだと、私たちは、いつの頃から考えるようになってしまったのでしょうか。

この日もまた、子どもたちに教えられ、大人たちと学び合い…私もみんなに育てられた…いい一日でした。

(平成30年5月号 園だより「ひぐらし」より)

ひとつ屋根の下で

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ようこそ、誠美保育園へ、そして新クラスへ。

先日のなかよし会(入園式)、開花の早かった桜の花も、この日を待っていてくれました。期待とちょっぴりの不安が入り混じる、このふわっとした春の空気を吸い込むと、この季節特有の高揚感が湧き上がってきます。

子どもも大人も、まずは、よく泣いて、よく笑って、今の感情を思い切り表現する…そこから始めていけばいい、そう思っています。

本誌「ひぐらし」。夏の夕方に聞こえる「蜩」…ではなく、「日暮らし」。「暮らし」という言葉の響きには、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、そこに集う人たちの文化のようなものを感じます。IMG 8106

今に夢中な「その日暮らし」
いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
今日こそはと挑む「この日暮らし」

子どもも、大人も…それぞれの毎日の営みが積み重なって、このもう一つのお家の中に、私たちならではの文化を漂わせていきたい…そんな思いを込めています。今年度も毎月、園長の勝手な思いを、つらつらと書き連ねて参りますので、どうかお付き合いください。

先日、お向かいの宮上小学校の入学式にも参列させていただきました。ついこの間まで、ともに過ごしていた卒園児たちが、緊張し過ぎることもなく、かといって、上の空というわけでもなく、周囲の声や動きを、キョロキョロと追って興味深げに観察しているように見えました。

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そんな姿を見ながら、今、日本中のそこかしこで、赤ちゃんから大人まで、こうやって大きな節目を迎えている人たちがいるのだな、と思いを広げていました。

新天地、新たな環境に慣れるというのは、中々エネルギーのいるものですが、おかげで自分の新たな一面が見えてくることも事実です。あれは、自分が変わっていくためのエネルギーだったと考えれば、多少その苦労も報われますね。

一方で、環境が変わらないことで、安定的に過ごすことで、育つものもあります。この世に生まれ出でて間もない子どもたちとっては、遭遇するモノやコト、見聞きする事象や現象、いわば毎日の経験一つ一つが、この宇宙の摂理との出会いの連続です。しかも驚くことに、それを一つ一つ自分なりに関わりながら、確かめようとしていきます。

こういったささやかな(本人にとっては重大な!)感動や意欲は、大きく環境が変化しない、一定の安定感の中で生まれてくるものだと思います。

変化の後には安定、安定を続けた後には変化、これを繰り返すことで、人は育っているのです。とはいえ、このバランスの取り方がまた、中々悩ましいものなのですが。IMG 8113

「何を変えて、何を変えないか」

みなさんのお仕事を含め、実は世の中では、あらゆる場面で常にこの判断を求められているような気がしてなりません。

変えるというのは、飛躍を目指すこと、変えないというのは、掘り下げ深めようとすること…どちらにも意味があり、どちらも大切。子どもたちの育ちから見えてくるこの2つのことは、何事にも通じる原理なのかもしれません。

さて、本年度は、保育園の保育内容を規定する、新しい「保育所保育指針」がスタートする年です。足並みを揃える幼稚園の「幼稚園教育要領」と、共につながっていく小学校の「学習指導要領」も同時に改訂されています。

文部科学省の大臣室にかかる額には、「不易と流行」と書かれているそうです。

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不易とはずっと変わらないこと、流行とはその時々で変えていくこと…とのこと。今回の改訂においても、もちろん本質は何も変わってはいないのですが、今の、そしてこれからの時代が、少し透けて見えてくるように感じています。懇談会等を通して、そうした内容も、お伝えしていければと思っています。

本年度も、応援よろしくお願いします。

そういえば、保育という文字にも、「保つ(変えない)」と「育てる(変える)」が入っていました。

(平成30年4月号 園だより「ひぐらし」より)

保育界の一番長い日

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夜半の雨は想定外だった。夕刻からは雲が切れて、翌日から晴天が続くとの予報を信じていた。なので、卒園式の園庭での開催を決めていたからだ。

深夜ではあったが、翌早朝から、会場装飾のバルーン設置に取り掛かるI井氏に、ホール開催に変更の可能性ありとメールを入れた。

雨が上がった翌朝、少し遅れて保育園に到着すると、既にバルーンはホール側に運び込まれていた。園庭の真ん中に立って、足元に目を落としてみる。水はけは問題ないようであったが、気温はどうにも上がりそうにないなと、切れそうで切れない雲が、いっぱいに広がる空を見上げた。

そうと決まると心は晴れた。ホールでの式も、ぎゅうぎゅうな分、一体感を感じていいものなのだ。

それにしても、今年の卒園児たちは、式のリハーサルでもよく笑っていた。証書を渡す私の言葉や仕草にも、証書をもらう友だちの仕草にも、保育者のはなむけのコメントにも。それぞれに、面白く感じるポイントは違うようなのだが、少し退屈な式の流れに、椅子の上で体をもぞもぞさせながら、よく見て、聞いているものだなと感心する。

一体何が面白いのかなと、子どもの感性を不思議に思うことも多いが、この頃の年齢になると、この可笑しさがわかるようになったのか、と驚くことも多い。何に笑うのかというのは、知的発達のバロメーターだなといつも思う。自分が想定するその人や、その場の状況や雰囲気との微妙なズレを、敏感に感じ取れるから人は笑える。そのためには、相当の想像力や思考力が必要になると思うのだが、世に生まれてたった6年ほどで、この笑いのツボもグッと大人びてくる。

昨年までは、子どもとその保護者の席が、右と左に分かれて対面していたはずなのだが、なぜか今年は、左右に分かれたそれぞれの前列に子ども、後列に保護者というレイアウトに変わっていた。

壇上から保護者へ語りかける時、左右に首を振って、均等に視線を配る気遣いを、まだかなと、退屈そうに体をひねる子どもたちの頭越しに成し遂げねばならぬという…そこには、大きな試練が私を待ち受けていた。

そこで私は、日頃考えることも多い「子どもとオトナの境界線」について話したような気もするのだが、はっきりと覚えているのは、知らず知らずのうちに、体が椅子から崩れ落ちていくのを、懸命に持ちこたえようと蠢く幾重もの影を、左右に移す視線の隅で確認して、話を先へと慌てていたことだ。

玄関先で、お二人の来賓を見送ったあと、式場は「謝恩会」という、かなりこそばゆい会に模様替えされ、少し恐縮した面持ちで、子どもたちにエスコートされた席へと腰を下ろした。

司会に、演奏に、スライドショーに、印刷物に…普段私たちが接する母親、父親の顔とは異なる、オトナとしてのそれぞれの技量…そこに職場で奮闘する姿を重ね、想像しながら一人感じ入る時間が過ぎていく。ふと窓に目を移すと、その向こうには、早朝のようすが嘘だったかのように、春の陽射しを湛えた園庭が輝いていた。

夕闇を迎える頃、駅前の居酒屋には、日中の余韻を抱えながら、三々五々集る一団があった。保育者にとっては卒園式の、保護者にとっては謝恩会の、合同「打ち上げ」といったところだろうか。

最初に同席したY﨑母とM舩母からは、この「ひぐらし」の感想が聞けた、お酒に強そうなS藤母からは子育てと仕事への思いを聞いた、K岩父からは、行事毎のしおりのデザインを褒められた、通算11年のお付き合いだったE藤母から、周囲の助言を押しやってこの園に入園させたと聞いた、I藤母には、いつでもおいでと声をかけた、T本母と我が子の成長ぶりを分かち合った、後から駆けつけたA野父とT木母の、変な掛け合いが妙に可笑しかった…もっとたくさんの保護者と話したかった…お酒も入って、みんなはしゃいでいた、抱き合っていた、踊っていた…それは、親でもない、職業人でもない、かつての○○ちゃんに戻って笑い合う、素のオトナたちの姿だった。

人は、いくつもの自分を持っている。家庭で、仲間内で、職場で、地域で…それぞれの舞台で、それぞれに求められる役割を必死に演じている。でもたまに、どれが本当の自分かわからなくなる時がある。挙げ句の果てに、全部が自分なのだと達観してみせたりする。
素直でいたい、自然体でいたい…本当は、皆がそう思っている…幕間に戻れる自分の楽屋を探している…子どもだって、オトナだって自分らしくいたいのだ。

この6年間、親として舞台に上がり、まずまずだった第一幕の終演を、衣装を取って喜び合う役者たちの姿に、なんだか眩しさを覚えていた。もうひと盛り上がりで、ようやく今日一日も終わるのかなと、少し疲れた頭で考えていた。

そして間もなく、また、第二幕のベルが鳴るのだ。

(平成30年3月号 園だより「ひぐらし」より)

白い恋人たち

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久しぶりとあってか、先月末から今月かけた大雪には、少し慌てました。いまだ、雪かきに奮闘中の雪国の方々には少し笑われそうな話ですが。

IMG 2733ふわふわに降り積もった、足跡一つない園庭。これから始まる雪遊びに、部屋の中で準備する時から、子どもたちも興奮気味…なのに、いざ園庭に飛び出し、雪の布団に大の字でダイビングするK西先生の後に続く子どもはおらず、こちらは少し拍子抜け。

よく考えてみれば、スキー場を含めても、わずか数年を生きただけの子どもたちにとって、降り積もる雪に遭遇した経験など限られているだろうから、少し慎重になるのも当然かもしれません。人間の自己防衛本能も大したものです。

IMG 2748中には、濡れたといって途方に暮れる子、冷たいと言って泣き出す子もいて、雪なのだから、それは当然だろう思いながら…言葉や絵本で見聞きしていたものを、こうやって、身を持って、感覚を通して、本当の意味で知っていくのですね。言葉は言葉だけでは定着しないもので、感覚とセットになって獲得されていくものです。普段「言葉を憶える」という言い方をしますが、実は感覚や感情を伴いながら、それは刻まれていくもので、少し難しく言うと、音声としての言語が身体化されていくというのが、言葉の獲得プロセスの正体です。体験に言葉を添えてもらいながら言葉を憶えているのです。

今回の雪との遭遇がそうであったように、子どもたちは、この世界の様々なエッセンスに、こうしてひとつ一つ出会っていく…その初めての出会いの場面に立合うことができる私たちも、なんとドラマティックな経験をしているのだろうかと、あらためて思います。そして、その出会いの瞬間を意味あるものにするための演出力、それが私たち、キューピッド役の腕の見せ所です。

IMG 2754さて、先日は、年長児童が参加した近隣、4つの保育園が集まって「ドッヂボール交流会」。心配だった園庭の雪もすっかりと消えた、今年は当園が会場でした。

今回は、昨年までの園対抗をやめ、交流をさらに深めていこうと、4園の混成チームを複数作り、後半は、一足先に顔見知りになろうと、就学する小学校別のチームで○×ゲームを楽しみました。

混成チームという初めての試みを、子どもたちがどう受け止めるのかと注意深く見守っていたのですが、チームの勝利に顔を見合わせ喜ぶ姿、自チームの担当保育者が他園の先生であっても、駆け寄って、笑顔を交わしながらハイタッチする姿、チームで相談しながら、真剣にゲームに取り組む姿…自然に関わり合えるしなやかさは、期待以上の光景でした。

IMG 2756応援に駆けつけてくれたそれぞれの園の保護者の皆さんは、もしかしたら、どこを応援?という戸惑いもあったのかもしれませんが、対抗戦であった時には、少し過熱気味の声援も気になっていました。どうしても自園の活躍に終始しがちな視点から、「ならば、何を見ようか」と視野を広げ、子どもたちの姿に、それぞれの発見があったのなら嬉しいなと思います。

これは、子どもたちにとっても同じで、わかりやすい対立軸を設けると、仲間内での連帯感は高まるのかもしれませんが、むしろ交流相手との距離は広がるのかもしれません。チームメイトといっても、交流会のいっときでは、打ち解けるまではいかないのかもしれませんが、「さて、どうしよう」といった戸惑いこそが、相手に関心を寄せようとさせるのではないでしょうか。

交流会の終了間際に聞こえた「おもしろかったぁ。」という子どもの声は、交流ならではの「出会い」の楽しさを見つけた言葉。 

私たちが放った今回の矢は、そのハートを大きくは外さなかったのかな。

(平成30年2月号 園だより「ひぐらし」より)

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