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4つの習慣

 先日のみなさんと挑戦をした、オンライン会議アプリを使った「リモート保護者懇談会」。準備段階から、手探りで始めた試みだったのですが、いざ開催をしてみると、色々な発見がありました。
 そのひとつは、お子さんもその傍にいたということ。小さなお子さんは、腕の中や膝の上に、少し大きくなると、このいつにない光景に少し興奮をして、さらに大きくなると、一緒にソファに腰を下ろし、画面の様子に真剣に耳を傾けている姿が、印象的でした。
 早く対面をと、待ち望む声も聞かれた一方、時には子どもの横槍に笑い合いながら、みんなでゲームでもしているような、非日常を感じる楽しさがあった、との声もいただきました。
 そして何よりも、互いにマスクと取って向き合えたことに、かつての日常に少し戻れたような、安堵感を覚えた時間でもありました。

 さて、そのリモート会議アプリの画面に映る、当園のスライドにお気づきになったでしょうか。
 「幼保連携型認定こども園せいび」
 そこに書かれていたのが、来年度の、新しい園の名前です。子どもでも読めるように、「誠美」はひらがなにしてみました。少し長ったらしいので、電話などでは、「はい、『こども園せいび』です」と言うべきか、会話では、「『せいび』では…」となるのかと、今から考えを巡らしてはいるのですが、4月を越えても、思わず「保育園…」とこぼれる日々は続きそうで。当分の間は、みなさんと互いの言い間違いを、指摘し合っていくことになりそうです。
 「こども園」の「こ」は、国の表記に習い、ひらがなである点も…お忘れなく。

 以前からお話ししていますように、4月からも、今と何も変わらない園生活が続いていきます。とはいえ、ひとつの節目となるこの機会に、これまで、当園で大切にしてきた「こんな園になりたい」という思いを、あらためて、4つの言葉に込めてみました。

<<自治性あふれる園…皆で考える毎日を>>
 自分たちのことは、自分たちで決める…このことは、大人同様、子どもたちの生活にとっても、土台となる考え方です。
 自分たちの声が聞き取られ、その声が園生活を変えていく体験は、「自分の思考は、この世界のあり方を変えていく」という意味深い経験。それが、これからの社会創造を担っていくための、原動力となるのです。
 そして、「聞き取られる」心地よさを経験した子どもたちは、次は、他者の声を「聞き取る」楽しさや喜びに、気づいていくはず。民主主義の基礎がここにあるのです。

<<審美性あふれる園…心を揺らす毎日を>>
 「審美」とは、本当の美しさを見極めること。その時の「美しさ」とは、綺麗である、整っている、といった目に見える形ばかりを言うのではありません。
 気持ちよいとか、得体が知れないとか、ぞくぞくするとか、不思議だとか…心を揺らす対象は、きっと全て「美しい」ものだと思うのです。これには、個人差もあるだろうし、普遍的なものもあるに違いありません。
 無駄なく合理的であることや、便利で機能的あること(機能美)も美しさであるし、理屈や損得を超えた、その人なりのこだわり方(美意識)もまた、美しさのひとつです。
 それぞれが感じる意味や価値に、しっかりと心揺らしながら、その感動をみんなと分かち合おうと生きているか…そう問いながら、毎日を過ごしていきたいのです。

<<共感性あふれる園…面白がる毎日を>>
 「なるほどねぇ」と言われて、嬉しくない人なんていない。俗に「褒める」とも言いますが、自分の感動や考えに同意、賛同してくれることは、自分の存在価値を認めてくれたという証。
 そうした互いの価値観を、みんなで楽しんでいく心地よさを、大切にしていきたい思っています。

<<探求性あふれる園…やってみる毎日を>>
 乳幼児期は、世界と出会っていく毎日でもあります。あれ何、これ何と周囲の環境に触れ、その反応を確かめながら、この世界を知っていく…これがこの時期の仕事でもあるのです。
 だから、挑戦が許される精一杯の環境を準備しなくてはいけない。好奇心さえ絶やさなければ、ずっと豊かに、人生を生き抜いていけるのだと思うのです。
 
 そして、この4つのこと…「園」の文字を、「職場」や「地域」に置き換えながら、私たち大人も一緒に、毎日を生きてみたい…「こんな社会を作りたい」と、共に声をあげながら。

(令和3年2月号 園だより「ひぐらし」より)

思考する集団

 保育園でも、対外的な会議がオンラインに切り替わっていったことなどを、以前のひぐらしでも触れたのですが、いわゆる「研修」というやつもその例外ではありませんでした。
 一般的な製造業や商業的サービスとは少し違って、保育の世界は、保育者自身の習熟や変容が、「品質向上」そのもの。日々の経験に、外から新しい知見を加えながら、己の保育の捉え方を、再構成し続けていくことがその仕事です。なので、この研修の形がオンラインになっていったことも、私たちの仕事のスタイルを大きく変えたことでした。

 そうしたあるオンライン研修の画面に、2枚の写真が映し出されたことがありました。1枚の写真には、満面の笑みを湛え、少しおどけた様子で体を躍らせる3歳児が。もう一枚には、何かに思いを馳せるように、凛とした表情で、遠くを見つめる5歳児が写っていました。
 前者は、湧き上がる探究心に任せ、マイペースに生きる3歳児を。後者は、明日を見据えながら生きる5歳児を。それぞれの年齢を象徴するポートレートとして紹介されました。

 そして、このわずか2年の間の劇的変化の裏側で、一体何が起きて(育って)いるのか…というのがこの日のテーマでした。その背景にある育ちは、
 ・論理的思考力(因果関係の理解)
 ・他者の心を読み取る力(個性形成)
 ・言葉、ストーリー理解の飛躍
 とのことなのですが、そんな小難しい理屈はさておき、要はこの3〜5歳の間に、「言葉巧み」なって、「理屈っぽく」なって、「相手の気持ち」がわかるようになって…つまり、だんだんと、「ものがわかる連中」に見えてくるのです。
 心赴くままにブラブラと園内の徘徊していた3歳が、やがて何かを目指し協働する5歳となる…ならば、その間にある4歳の頃は、どう過ごせばよいのか…それは、「考え合う」生活だと言うのです。

 かしこくなっていく頭を、ふんだんに使って鍛えていく生活。しかもそれを、仲間と一緒にやるというのがミソ。例えば、日頃、それぞれがぶつかる些細な問題に、思いを交わしながら、その解決を考え合ってみたり…そんな思考の応酬を経験したい。「話ながら思考し、思考しながら話す」のが幼児期の特徴なのです。
 「仲間と一緒に思考する集団」…何だかカッコいい。それが写真にあった、あの凛とした5歳児の表情に繋がっていくと言うのです。
 ただ、この「年齢」というのは、「発達の順番」 を表す大雑把な指標に過ぎません。そうした育ちが、どのタイミングで訪れるのかは、人それぞれであることも、忘れてはいけないことです。

 さて、こうした話を聴きながら、私は園内で書かれた、「野菜はいつ育つ?」と題されたある4歳児の保育記録を思い出していました。

 その概要は…

 園庭の野菜育てに夢中なMちゃん。ある日、朝と夕の水遣りではあまり伸びていない枝葉が、翌朝になると大きく育っていることに気づくのです。
 見間違いかなと言いながら、保育者と一緒に前後の写真を撮影。やはり夜を越した時に大きくなっていることを確認すると、「正解!」と喜びながらも、「でも、昼に太陽を浴びるのに、どうして夜?」。 次なる疑問に、保育者が返答に窮していると…「私、考えてみる!」…こうして、Mちゃんの答え探しが始まったのです。
 そして、図鑑を開いたりしながら、「夜の空気に栄養があるのか」「月の光で大きくなるのか」などと推論を進めていったのでした。
 そして、それはある日の午睡時、Mちゃんと保育者が、言葉を交わした時のこと。
 「なんで寝るの?」
 「大きくなるためだよ」
 すると翌朝、保育者を見つけた彼女は、開口一番、
 「わかっちゃった!野菜も昼にたくさん食べて、寝てる時に大きくなるんだね。」

 この記録を書いた保育者は、端末を叩けば、何でも答えが出てくるこの便利な世の中に疑問を感じながら、「自分で考えてみる」と言ったMちゃんを支えたかったと振り返っています。
 そして、その記録は、次のように結ばれていました。

 今回、Mちゃんがたどり着いた答えが、本当の意味で正しかったのかはわかりません。しかし、年中児のMちゃんが『納得できる答え』だったのではないかと思います。
 そして、小学生、中学生へと成長していった時、「あの時はそう思ったけれど、もっと別の答えがあるかもしれない。」と思い、また自分で考えて、新たな答えを導き出していく。それを繰り返していくのだろうな、そうであって欲しいなと思っています。

(令和3年1月号 園だより「ひぐらし」より)

やりたがりは誰?

 先日、かぜグループ(3〜5歳児)で、お楽しみ会を開催しました。今年度は、保護者の参観をご遠慮いただき、子どもたちで楽しむ会となったのですが、その様子を撮影した動画のオンライン配信、ご覧いただけたでしょうか。

 特別な来客のない、いつもと変わらないホール。例年よりも、ずっと肩の力の抜けた会は、本当に「お楽しみ」な雰囲気が漂っていて…これはこれで、なかなか良いものです。

 いつもお話しすることですが、当日よりも、そこに至るまでのプロセスに意味があります。自分たちが披露したいこと、表現したいことを、準備や練習などを通して、自分たちなりに作り上げてみる…その途中途中で経験する内容に目を向けて欲しくて、今年も、その活動記録の掲示に励んで参りました。

 子どもは元来、やりたがりで、見せたがり。ですが、実はこの年齢の子どもたちは、ずっと身近なごく少数の人たちに、共感してもらうことで十分なのです。リビングで踊る姿に、家族から拍手をもらったり、たまたま周囲にいた仲間が「スゲー」と声をあげてくれたり。
 それに、まだまだ「やりたがり」さえ受け止めてくれたら、それで十分と思っている子も多い。

 世の大人たちは、運動や身体表現、製作物など、「大勢の前で、何かを披露する」ことを、なぜか成長のバロメーターにしたがるようです。そのくせ自分たちは、大勢の前では、意見を求められないように、存在を隠すように俯くことも多いというのに…。それくらい、披露することって、簡単ではないのです。
 それでも、何かを表現していくことは、本当は楽しいことなのですが、その規模や程度、時期や方法は、人それぞれではないでしょうか。それは、大人だって、子どもだって変わりはしないはずです。

 私は子どもが、脇目も振らず、何かに夢中になっている姿が好きです。その微動だにしない姿も、反対に、何かを探って、あちこちへと走り回る姿も…その子が見出している何かを「表現」している姿だと思うのです。
 舞台で演じることが「ライブ型」の表現活動だとしたら、私はこれを「ドキュメンタリー型」と名付けたい。ただ、それを限られた時間の参観を通して理解してもらうことは難しいことです。だから保育者が、毎日の活動の記録をせっせと張り出し、その営みを代わりに「表現」しようとしているのです。

 そして、お楽しみ会に向け、数々のチームが立ち上がっていく中、今年も昨年度に続き、カプラ(積み木)チームも結成。その製作活動の披露に挑戦したのですが、「活動の盛り上がりのピークが、会の手前に訪れてしまって…」と、担当者がその難しさを語ってくれました。
 そう、子どもたちは「お楽しみ会」に合わせようなんて、そんなつまらぬ了見で、遊んでいるのではないのです。それこそ本気で、夢中になって遊んでいる証。

 やりたがり、見せたがりの子どもたちは、一方で、「見たがり」でもあるのです。果たして、今年のお楽しみ会では、子どもたちが「よき観客」を担えるのかが、実はもう一つの目玉なのでした。
 時間をかけて「作り上げていく面白さ」を味わうことがテーマのこの活動。他人が取り組む姿は傍で見ていたし、時にはリハーサルにも付き合っていた子どもたち。当日、みんなの完成作を通して観れることを楽しみにする子もいる一方、もうお腹いっぱいといった感じの子もチラホラ。その気持ち、わからなくもない。

 ただ、舞台からの問いかけがある時には、前のめりでそれに応えようと声を上げる子どもたちの姿を見て、ここに、みんなで楽しむヒントがあるような気がしました。それは観客であっても、やっぱり「やりたがり」なんだということ。観客も一緒に動いたり、声を出したりできる内容なら、何度見ても楽しいもの。
 そういえば、最近のライブコンサートだって、観客との掛け合いの中で「一体感」を求めている…偶発性を楽しんでいる…そんなことにも気づくのです。「やりたがり」は大人だって変わらない。

 たまたま、某自治体の幼児教育関係者がお一人、このお楽しみ会の視察にみえていました。その帰り際、「子どもたちにとっては、『お苦しみ会』になっている例もまだ多くて…」と一言。
 「見せること」だって「見ること」だって、本当は大好きなはずなのに、それぞれに形の違うその場所へ、一人残らず連れて行ってあげられないのだとしたら、それは一体、なぜなのでしょうか。

 大人たちみんなで、そのことを考えていきたいのです。行事を遊びを、子どもたちの手に、取り戻していくために。

(令和2年12月号 園だより「ひぐらし」より)

育ち方を探しに

 来年度の移行へ向け、手続きを進めている「認定こども園」。先日、その認可を得るためのプレゼンテーションを行うため、八王子市役所へ出かけました。
 そこは、こども園に移行する必要性や意義を、有識者で組織される認可部会の委員の面々に説明する場。

 保護者のみなさんにも、その思いを知っていただければと…少し、堅い文章なのですが…その時に配布した資料の一部をご紹介します。

「目指したいこと」

 人は生まれ落ちた境遇によらず、その生きる道筋は限りなく自由で、また平等な機会に恵まれていくことが望まれています。そして、乳幼児が集う施設というものも、家庭の次に出会う初めての居場所として、子どもたちの個性や家庭の価値観に応じて、柔軟に丁寧に選び取られていくことが大切なことだと考えます。

 本来持っていた家庭や地域の機能が発揮し難い現代、それに変わる、子どもたちが育ち合っていく場、家庭が集い協働していく新たな場は、どんな境遇の家庭でも集うことのできる開かれた場であることが理想です。そして、そうした地域の人々のもう一つの居場所、育ち合いの場を目指して位置づけられたのが、幼保連携型認定こども園だと考えています。

 ただ、そうした新しい地域社会のあり方や、その枠組の構築はまだまだ途上で、これからの社会で必要となっていく力を、子どもたちは「どこで」「どのように」育めばよいのか、また大人たちはその働き方も含め、今をどう生きればよいのか、その模索は当分続くように思われます。

 それは答えを探すというよりは、失敗を恐れずに試行錯誤を重ねながら、子どもや保護者をも包む地域のみんなで、新しい答えを創り出すという営みで、それはきっと、今までよりずっと創造的な道のりになるような気がしています。そして私たちが、こうした新しい地域社会の形を模索する歩みへ貢献していくということは、この新しい幼保連携型認定こども園の中で、「育ちを探求する場」を醸成することなのだと考えています。
 
 それは、ささやかで小さな挑戦なのかもしれませんが、これからの日本の幼児教育・保育のあり方を模索する新しい実践を、私たちからも発信していけたらと思っています。

 待機児童の受け皿の拡大と止まらぬ少子化の進行の中、八王子市の保育園では、徐々に「待機児童の解消」といった役割を終えようとしています。

 そうしたことを見据えながら、もう何十年も議論の絶えなかった保育園と幼稚園の2元化の問題に、終止符を打つべく導入された「認定こども園」。制度としてはまだまだ未熟で、とてもわかり易いとは言えない代物なのですが、ともかく、保育の「量」から「質」に向けた動きが、ようやくここから始まっていけば…そうした期待感も持っています。

 そしてこれは、これからの時代を見据えた「新たな育ち方」の模索の始まりとも言えます。園任せでも、家庭任せでもなく、地域や職場、行政も一緒になって悩み、考える…子どもを真ん中に置いた、新しい社会作りの始まりの合図…そう考えてみたいのです。

(令和2年11月号 園だより「ひぐらし」より)

 先日、運動会に変えて、あおぞら(4歳)、とり(5歳)それぞれを2日にわけ、いっときの時間ではあったのですが、パラバルーンやリレー遊びに取り組む運動遊びの参観日を設けました。
 お仕事等で参観できない保護者もあるかと、当日は動画撮影を試みたのですが、そこには一抹の不安がありました。
 今や誰でもどこでも、手軽に動画が撮影できるようなったことに加え、その画質も以前とは比べ物ならないくらいのクオリティー。おそらく、家庭の録画機材よりも、ずっと古くてしかも入門機レベルの園のビデオカメラ。屋外の音声をどこまでキャッチできるのか、目の肥えた視聴者のみなさんに、果たして、ご納得いただけるのかという不安が。

 そして迎えた当日。せめてアングルくらいはと三脚を築山に運び、1時間近くも前から、ああでもないこうでもないとセッティング。その様子を見ていた(その日、スナップや集合写真をお願いした)プロのカメラマンの「それ、素晴らしい三脚ですね。」という言葉に、そこですかと、少し悲しげな笑みを返す私。
 それを終えると、今度は、反対側の園舎の屋上へと向かい、もう一台のカメラのセッティング。築山のカメラにトラブルがあった場合のリザーブとして、2台体制を組んだのでした。

 そこから、先ほど築山の頂上に立てたカメラを見下ろし、遠目に「よし」と確認している時、その隣にすっと降ろされたもう一台の三脚。その上に鎮座する、外付けのマイクまで備えた、明らかに高機能な保護者のカメラを見た瞬間、薄日の差し始めた空を、思わず仰ぎ見たのでした…ああ、私たちが撮影する意味が、一体どこにあるというのかと。何も真横に並べなくたって…ならば、その動画データを貰えはしないかと。そして、密かに心に誓ったのでした…築山からの録画データは、絶対にお蔵入りにしようと。

 さて、そのようにして?出来上がった配信動画はいかがだったでしょうか。
 最初にバルーンを囲み、位置取りをしていくあおぞら(4歳児)の子どもたち。とり(5歳児)とは違って、一発で決まるほど、まだうまい動きはできないのだけれど、なんだかんだと、自分たちで声を掛合いながら、少しずつ、ドタバタとポジションを調整していく姿。少し間延びしたこうした時間にこそ、4歳児ならではの育ちが表れているのです。
 
 とり(5歳児)のリレー遊びでは、思わぬハプニングもありました。
 別れた3チームの人数が異なるため、複数回走る子もいるのですが、周回遅れのチームも出る中、そのやり繰りが正確にリレーされていったのかが、途中から保育者たちにも、わからなくなってしまったようでした。
 最終的に「やり直そう!」ということになったのですが、私はここで、「子どもたちに相談してみる」という選択もあったように思いました。もちろん、保護者の参観もある中、そんな悠長なことはしていられない、という大人たちの判断も致し方ないとも思いますが、こういった場面にこそ、5歳児の育ちが発揮されたようにも思うのです。

 一旦決まった勝負がやり直しになっても、2回目の勝負が決した後でも、走っている時の真剣な表情とはうって変わって、子どもたちは、さほど順位にこだわりはないように見えました。
 ここに、遊びの本質があるような気がします。最終的に勝負がつくことを求めているのではなく、遊びに浸ること自体が面白いようです。それは子どもたちが、バトンを渡し終えてもまた走りたくて、また順番待ちの列に並ぶという「無限リレー」が大好きなことにも現れています。あの大好きな「鬼ごっこ」でも、永遠に決着はつきません。

 自分が手渡すバトンで走りが繋がっていくことや、鬼から逃げ回るドキドキ感…結果ではなく、その瞬間が面白くてたまらないのが、「遊び」なのです。
 だから、リレー競争ではなく、リレー遊び…さらに言えば、リレーごっこ。バトンゾーンも何となく、多少のショートカットも何のその、厳格なルールを求められたら、つまらない。

 だって、イメージの中では、自分はちゃんとかっこよくできている…それが、少し背伸びをしながら「ごっこ」の世界を生きる、子どもたちの姿なのだから。

(令和2年10月号 園だより「ひぐらし」より)

私の時間

 この半年の間、新しい生活様式が求められる中、保育園業界も否応なくオンラインの波に飲み込まれていきました。

 こういったデジタル技術に疎く、いつも二歩も三歩も遅れて、息を切らしながら追いかけていく私たちなのですが、春の頃までは、「オンライン」なんて言葉すら知らなかったあの園長たちが、「では、来週またズームで」なんて画面越しに笑顔で手を振る姿を見るたびに、この半年という時間が、私たちにもたらした事の意味をしみじみと感じるのです。

 そして、どちらかというと頭の堅い人種と思われるこういった人たちでさえ、なんだかんだと言いながら、こうして変化に応じていく逞しさを持っている事に、感動にも近い感覚を抱くのでした。

 セロテープ、ホッチキス、バンドエイドやタッパーのように、製品名である「ズーム」という言葉も、今やオンライン会議の代名詞となるくらいに、あっという間にその名も広がりました。ただ、会議の主催者によって、指定されるアプリがそれとは限らず、その度に別のアプリの操作を覚えねばならないことも、私には少し辛い作業なのですが、そういった会議を、時には1日に2つ3つハシゴせねばならないシンドさも相当なもの。
 世ではこれを「ズーム疲れ」と称するそうですが、始めのうちは「会場に足を運ばなくて済むなんて!」と感動していたのですが、すぐにあることに気づきました。

 確かに移動時間は節約できるのですが、会議が設定されている日は、やはりその開始時刻に遅れないようにと気にしながら、それまでをそわそわと過ごすことには、何も変わりがないのです。決められた時刻に、ピタリとタイミングを合わせようとすると、その前後の生活の調子が、どうにも狂ってしまう…どうやら、それが会議の煩わしさの本質のようだと気づき始めたのでした。

 ちょうど、走り幅跳びの踏切線に歩幅を合わせるために、それまでは滑らかだった助走の足並みが、その手前から急にドタバタと乱れてしまい、気持ちよく踏み切ることができない…そんなフラストレーションを感じるのです。
 時間的なロスの大きい「移動」という時間の中にも、心地よく会議へと気持ちを切り替えていくためのクッションのような役割があったのかも…そう思うようになっていきました。

 開始、出発、待ち合わせ、締め切り…「時の契約」の網の目の中で、私たちは生きています。「時」を互いに申し合わせることなく、みんなで社会生活を営んでいくことは、もはや現代では難しい。しかし一方で、それが、私たちに一定の不自由さやストレスを感じさせるようになったのも、間違いないのかもしれません。

 そういった約束のための時間、いわば「他者との時間」が「大人の時間」なのだとしたら、子どもにとっての時間とは何なのでしょうか。

 地図も持たずに、見知らぬ土地に降り立つと不安なように、昨日と明日がはっきりとしない状態を生きることも、大人だってとても不安なことです。子どもは1歳くらいを過ぎると、少しずつ見聞きしたことや経験したことを、具体的に振り返れるようになり、そこを足場に5歳くらいにかけて、これから先の事が、少しずつ見通せるようになっていくのです。「昨日まで」と「明日から」を見渡す力を手に入れ、時間の流れの中に我が身を置くことができるようになると、ぐっと安定感が増し、自立への歩みをより確かなものとしていくのです。過去や未来を語れるようになった幼児の姿には、私たちも本当に成長を感じますよね。

 そう、子どもにとっての時間とは、「何時から」とか「何時に」といった(約束を)守るための時間ではなく、今はまだ「自分のため」の時間。今この時に立っているという安心感を基地に、気の向くままに好奇心を広げ、あれにこれにと挑戦心溢れる毎日を生きていく…「縛られる」のではなく、「自由」を手に入れるために「時間感覚」を身につけていくのです。

 みんなには、今はたっぷりと「子どもの時間」を生きてほしい…「大人の時間」に振り回されながら、オフラインを心待ちにしながら…考えたことでした。

(令和2年9月号 園だより「ひぐらし」より)

されど、水遊び

 この夏は、少しでも密を避けようと、プールを駐車場に設置してみました。送迎時が、少し窮屈になってしまうことを気にしながらの試みだったのですが、おかげさまで大きな混乱もなく、水遊びの終盤を満喫しております。

 当初、もう一つ懸念されたのが、プールへの入水前に浴びる水の温度。プールに貯めたものとは違って、水道から出たばかり水は、真夏でもまだ冷たく感じるらしく、「冷たーい!」と大騒ぎになるので、プールを2階に設置していた際には、室内から給湯器のお湯を引いて、少し混ぜたりしていたのです。

 私が子どもの頃は、プールも井戸水を使っていたので、真夏の日差しを浴びても中々水温が上がらず、唇を紫色に染めながら入るのがプール。だから、定期的に水から出て、甲羅干しで体を温めながら入るのがプール。
 そんな風に「冷ゃっこい、冷ゃっこい!」(冷たい、冷たい!)と騒ぎながら入るのがプールだと思っているおじさんには、猛暑で生緩くなっている水道水の温度が問題になること自体、理解できないのです。思わず「冷たさを味わうのが、夏の水遊びだよね。」とぼやくと、少し呆れ顔の某看護師に「それ、いつの時代の話ですか…」と流される私。

 そこで急遽、倉庫にあったポリタンクを引っ張り出して、黒く塗装。そこに、水を溜めて炎天下に晒してみたところ、まずまずの湯加減。こうして現代っ子たちのプールの準備が整いました。

 盛夏のある日、園庭の草刈りの道具を片付けながら、目に入ってきたのがキラキラと光るプールの水しぶき。この暑さにもう我慢ができず、大波を起こしてはしゃぐ子どもたちの邪魔にならぬよう、露天風呂にでも浸かるように、そっとプールの隅に身を沈めてみたのです。すると突然その大波をざぶんと被り、慌てて顔を拭っていると、ひとりの子が、「手が大きくなった!」と、水鉄砲にしたマヨネーズの容器を私に向けました。それは、水の入った容器がレンズとなって、向こうに透ける手が大きく歪むようすを発見した、驚きの声でした。

 しまいには、みんなの水鉄砲の絶好の標的と化し、追われるように次に向かったのは、2階テラスの0〜2歳児の水遊び。ここの子どもたちの姿は、しぶきを上げて大はしゃぎする、先ほどの3〜5歳児とはまた違ったものでした。
 容器の穴から雨を降らせてみたり、ジョーロの水で水車を回したり、ホースに水を通したり…黙々と、そして何度も繰り返し試していくのです。

 先ほどのプールの彼らが、水を「利用」して遊んでいるのだとしたら、こちらの子どもたちは、水を「知ろう」とする姿のように見えました。そして、それに応えるように、水の性質を探求し、それが実感できるような遊具が、ここには色々と準備されているのでした。

 「水遊び」なんて表現すると、かわいらしい素朴な営みをイメージするのですが、園内のあちこちで目にした、真剣で好奇に満ちた表情から伝わってきたのは、この遊びの本質は「科学遊び」だということ。しかもそれは、年齢が下がるほどに実験的で探求的。まずは、水(液体)という得体の知れない物の正体を知っていく面白さを、そしてだんだんと、波やレンズや水鉄砲などその性質を利用して、新たな自分の「力」を手にしていく…そんな面白さを味わっているのです。

 行き着く所「遊び」とは、地球上の様々な物質や現象との駆け引きを、面白がっていくことなのかもしれません。風船、シャボン玉、紙飛行機、凧、そうそう、それからパラバルーン…こんな遊びを通して、私たちは「空気(気体)」とも、仲良くなってきたのです。

 そう言えば、最近あるところに、こんな文章を書きました。

 「面白さ」というと、それは一見、発達理解の外側にある非科学的で感覚的な物言いにも聞こえるのですが、実は、そこを求めていくことは、子ども理解、人間理解を深めようとする行為そのものであるように、私には感じられるのです。
 それは「楽しさ」とはまた少し違ったもの…子どもが心揺らしていることのエッセンス(本質)を掴むこと…保育者のそんな繊細で確かな力の必要性を、そこに感じるのです。

(令和2年8月号 園だより「ひぐらし」より)

透明の色

 今年度予定をしていた、Kさんを招いた造形遊びが、3ヶ月遅れでようやく動き出しました。

 まずは、Kさんとの顔合わせということで、7月は、まずは5歳、次に4歳、最後に3歳と、ちょうど時を遡るかのように日程を組み、各回とも時間差をつけて、少人数でゆっくりと「色遊び」を楽しみました。時は違えど、この全員が同じ環境で、同じ活動に勤しむというのも、なかなか実験的で興味深い試みにもなりました。

 用意された長尺の和紙の上に、たっぷりの水で解いた、色鮮やかアクリル絵の具を、ポトンッ…と筆で落としてみることから始めます。霧吹きで先に和紙に水を含ませておくと、落とした場所から色がジワッと広がり、隣から押し寄せてきた色と重なり合って、そこにまた、別の色が浮き出てくるのです。

 この濁りのない、すっきりと感じる交じり合い方が、きっとアクリル絵の具の成せる技なのかな…と関心していると、その横で、筆にたっぷり含ませた色水が和紙に染み込み切らず、紙の傾斜と弛みに沿って、ツーっと筋を描いて流れる細長い筋模様を発見した男の子。(これも、化繊を織り込んで丈夫にした、今時の和紙を選んだ、専門家の視点を感じます。)
 すると今度は、紙の端にまで届いたその絵の具が、ポタポタと地面にこぼれ落ちる様子がまた面白いようで…ついには、容器から直接、絵の具を紙の上に垂らし、紙端から流れ落ちる色水を、別の容器で受けるという、私の想定を越える遊びへと変わっていきました。

 これは一見、「色遊び」が「水遊び」に転じていったようにも見え、もはやそれは造形遊びではない、と言われてしまいそうですが、果たしてこの両者の間に、どれだけの違いがあるのかと、考えこんでしまった私。前者の色遊びだって、滲みや流れ、筆跡といった液体ならではの特性を楽しんでいるわけで、「素材と戯れる」という点で、実は両者の間に、そんなに違いもないように思えたのです。
 そしてこれは、出来上がった「作品」にではなく、その活動プロセスにこそ意味があり、その人なりの素材との関わり方が、造形の本質なのかもしれない…そんな事を感じさせてくれた出来事でした。

 しかし一方で、色水の持つ「色彩」にも心揺らして欲しい…例えば今回の活動の意図は、そこにもあるわけです。ただこれは、その子にとって、水にまつわる一番目の関心事がまだ別にある限り、こちらの勝手な期待に目を移すことは、難しいことなのだろうなと思うのです。
 するとそこに、ある大切なことが見えてきます。それは、普段から、勝手気ままな水遊びを、存分に楽しんでおくことの重要性です。まずは「液体」ならではの性質を、五感を使って十分に味わっておく…そんな素地があれば、「こんなのもどう?」なんて投げかけに、「どれどれ」と気持ちを寄せる余裕も生まれてくるのかもしれません。
 だから、「遊び」は大事なのです。この乳幼児期は、五感を働かせながら、たわいもない遊びに夢中になる中で、この世を構成する一つ一つと出会い、生まれ出でた世界を知っていくのです。

 さて、3歳の様子はまた特別でした。
 まずは、Kさんが、透明の水を含ませた筆を、さっと和紙の上を真横に走らせて見せると、灰色がかった滲みが、まるで墨絵のようにじんわりと浮き出てきます。子どもたちが口々に「蛇だ!」と発する声を聞いて、その蛇の口先に、水滴を落としてみると…今度は「ネズミ!」。すると「ニャア、ニャア」とさらに発想を広げる子どもたち…導入で、こんな即興的なやり取りが続きました。
 そして、「じゃあ、みんなも!」と声がかかると、ピョンピョンと小刻みにジャンプを繰り返して高揚感を伝えてきます。この子たちにとっての造形とは、想像遊びや運動遊びとの境目すら、危ういものなのかもしれません。そういえば、ちょっとしたアクシデントから、紙の裏側に筆をあてても、描画できることを発見したのも、この子たちでした。

 5歳と3歳の間、外の仕事で顔を出せなかった4歳児の日。紙の上を這うように広がっていく絵の具の動きを「ブーンって広がる」と表現した子の話を、興味深げに伝えてくれた副園長。
 そしてたまたま、Kさんが無色の水で描いた線を見て、「透明の色、ちょうだい!」と絵の具を求めてきた子がいたそうです。早速これを、先ほどの3歳児との活動の導入に取り入れてみたとのこと。「こんな発見が、子どもたちと活動する醍醐味」と語ってくれました。

 どうやら、私たちが見ていた造形物とやらは、戯れの名残り…ただの痕跡…そんな気すらしてきたのでした。

(令和2年7月号 園だより「ひぐらし」より)

With チルドレン

〜 園だより「ひぐらし」6月号として

 登園自粛要請が解除されて、2週間が経ちました。まだ、いつもの8割ほどの子どもたちではありますが、園庭を飛び交う水しぶきが、初夏の日差しをはね返しながらキラキラと舞う…こんな賑わいが、やはり保育園には似合います。
 6月のスタートダッシュに一息つけば、比較的穏やかだったこの地域の3ヶ月を、また思い返してみたりしています。

 あの「遊びのレシピ」の動画配信を通して、まさか自分にユーチューバーデビュー (^-^)v なんて日が訪れようとは…これは、このコロナ禍が私の人生にもたらした事件でした。普段なら決して選ばない行動をしている自分に驚くことが、皆さんにも、あったのではないでしょうか。
 そして、そんなたわいもない出来事の傍を流れる平穏な日常こそが、私たちの行動の最大の効果。少し窮屈ではあったけれど、いつもと変わらぬ朝を迎えることが、私たちの成し遂げた大きな成果だったのだと、しみじみ思うのです。ただ一方でそれは、頭では理解はできても、少し実感しにくいものなのですが。
 何事も起こらない当たり前の毎日は、そうしたみんなの努力で作り出している状態…そうわかっていながらも、「とはいえ、そろそろ」なんて、また以前のように集まりたくなってしまうのですが、第2波、3波へと話題が移っていることを聞けば、まだ終わってはいない…ちょうど「出口の入口」辺りにいるのかなと、自分に言い聞かせてみるのです。

 確かに3密の避けられない保育園、「新しい生活様式」も少し馴染まない場所なのですが、だからと言って、この3ヶ月を無駄にしないためにも、社会の一員としても、開き直るわけにはいきません。
 矢継ぎ早に飛び込む行政からの通知、医療機関や学術団体から提示される知見、報道やネット上を飛び交う様々な情報、そういったものに聞き耳を立てながら、誰にも正解がわからぬ中で、私たちが選んだのは、「減密で濃密に」という方向性。この内容(今後の予定)については、既にお伝えしている通りです。

 この意味は、可能な範囲で3密を減らしつつも、子ども同士で過ごす通常の保育時間の枠の中は、生活のスタイル、遊びのスタイル、学びのスタイルを大きくは変えないということです。これは、「ウイルスの排出量の少ない子どもから子どもへの感染リスクは、大人から子どもへの感染リスクに比べて十分に小さい」という、主に医療系の学会・団体から聞く知見を拠り所にしています。
 そしてそれは、子どもたちの大人との接触機会を、日々の保育内容を支える保育者や外部講師などの特定の大人に絞っていくという考え方でもあります。これが「減密」です。

 今まで通りの、多くの家庭が一堂に会する機会は、しばらくはお預けとなり、寂しい思いはありますが、その分、私たちの力を、日々の保育活動の充実に注いでいくことができる…今は少し、頭を切り替えていくことも必要なのかもしれません。 
 参観のための規模の大きな特別な場を設定せずとも、大人の側が子どもたちの日頃の活動時間に合わせて、個別的に、あるいはクラスやグループごとに、時と場所をずらしながら、アクセスできるようにすること、小さな集いを園全体に散りばめていくこと…このコロナ対策で求められている方向性は、実は本来、この乳幼児期に相応しく、保育の場にとても馴染みやすい考え方であることにも、私たちは気づくのです(こうした分散型の参観も、夏を越えた辺りからなら、少しずつ…そうした期待を持っています。これも社会状況を見渡しながらですが。)。

 これが保育園でできる、また私たち保育者から提案したい「新しい保育園の生活様式」です。
 そして、そういった形が可能になっていく社会が、子どもたちの立場から見た「働き方改革」の一つの姿なのではないかなとも思うのです。
 だからと言って、今までの園行事のスタイルを、大きく変えるわけではありません。みんなでワイワイと交流することは、やはり楽しいものです!(今は…もうしばらく…我慢ですが。)
 
 外部講師との連携も、6月には運動遊び、7月から造形遊びも再開します。プール遊びも、空間的、時間的に分散を図りながら、いつも通りに楽しんでいくための準備を進めています。こうして、いつもと何も変わらない充実した保育の展開と、遊び環境充実を目指し、私たちは、最高の一年を作っていきますので、変わらぬ期待を寄せていただきたいと思っています。そう、これが「濃密」ということなのです。

 子どもたちの生活や活動の充実は、日常の保育時間の外側にある行事とは、全く別に存在します。確かにそういったものは、大人たちにとって、日常に彩りを添えるものかもしれませんが、子どもたちには、毎日出会う個別的な体験こそが本当に特別なものなのです。大規模なイベントがなくても、お子さんの経験の意味やその価値が少しでも届くよう、毎日の保育記録の掲示には力を入れていますので、そこから子どもたちの園生活を読み取っていただけたら、本当に嬉しい。
 大人たちのしばらくの我慢や、考え方や慣習の切り替えが、子どもたちの日常に大きな制限をかけることなく、充実した毎日と感染予防のバランスを取ることを可能にするのです。

 この3ヶ月を過ごしてみて、気づいたことがあります。それは、早く以前に戻したいこともあるけれど、戻す必要がないことも、この世の中には、あるのではないか…ということ。
 子どもたちの傍に身をかがめ、その見つめる先に視線を合わせていけば、それを、見つけていけるような…そんな気がするのです。

園長 折井 誠司

 遊びを詰め込んだ封筒、お手元に届いていますか?

 動画「遊びのレシピ」で紹介した遊びの中から、ピックアップをして届けします。

 動画の解説を参考にしながら、作って、飛ばして、動かして…楽しんでほしい。

材料セット
 #05「くるくるメガネ」
 #30「トントン相撲」
 #32「イカ飛行機」
 #37「はらぺこあおむし」

歌詞カード(まもなくカラオケVer.もアップされるとか!)
 #17「ウクレレ隊(1) 小さな世界+切り紙」
 #22「ウクレレ隊(2) 鯉のぼり+折り紙」
 #27「ウクレレ隊(3) 幸せなら手を叩こう+仕掛け絵本」

(#の番号は、動画タイトルに付した通し番号)

 自身で作るのはまだ難しくても、それに夢中になっている大人の手元を、ワクワクしながら覗き込んでいる、そんな姿が目に浮かぶ…。そして何より、出来上がった作品で一緒に遊んでほしいのです!

 そして、もし気が向いたら、作品画像を「遊びのギャラリー」へ…保育園にメール添付か、お知らせしているデータボックスへどうぞ。

 Stay Homeの人へ、Stay Seibiの人へ
 声を交わし合う日を…待ちわびながら。

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