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色の置き場所

 ここ数年、9月になると出かける場所があります。それは、子どもに関係する仕事に携わるものたちが、あれこれと語り合う、小さな集まり。花壇に揺れる色鮮やかな花々と、そこから仰ぎ見る空の雲の流れに、私にとって毎年、秋の始まりを感じる場所にもなっているのです。

 そこで、ある造形作家が子どもたちと絵画製作をした時の経験談を語ってくれました。

 それは、複数の子どもたちが、一畳ほどのひとつの大きな画面を囲み、手にした筆で、それぞれに自由に点や線、形を描き込んでいくという…いわゆる協同製作というものでした。

 自分の眼下、手の届くあたりから描き始めることにはなるのですが、それがどんどんと広がっていくと、いずれ他者の描画と、どこかでぶつかることになります。しかも、その製作活動には、気の向くままに立ち寄って誰でも筆を握ることが可能なので、人も入れ替わっていくのです。

 すると、始めのうちは、隙間を見つけて、そこに自分の色を入れるといった状況から、だんたんと他者の描画の上に、自分の色を被せ、それを塗り潰していくことになるのは当然の結果。

 するとその時、その作家が子どもたちに投げかけたという言葉が、実にいいのです。

 「前の絵がもっと素敵になるように描いてね。」

 また、下の色を覆い隠しかねない黒い絵の具を使う子には、

 「強い色だから、気をつけて使ってね。」

 私たち保育者には、少し思いつきにくい、素敵な伝え方に思わず唸りました。

 何の制約も受けずに、思うがままに筆を走らせる「発散するアート」もいいのですが、ここで行われていたのは、いわば「収斂するアート」。それを、「調整する力」と評した人もいました。

 描画領域を区分けるのではなく、相手の描画に分け入るように、その間近に、自分の色や形を置く行為。その周囲に似せようとするのではなく、違う色や形で「もっと素敵になるように」、互いに「調和」を求めながら形作られた結果、そこにはストレートな感性の発露とは別の、周囲の気配を感じようとするかのような、少し繊細で、何か意思のこもったような…作品にはそんな感動がありました。

 それぞれが色を置く瞬間、その「部分」だけで考えられたものが、見る者の心揺さぶる「全体」となっていった…そんな光景でした。

 そうした実践を聞いた後、ならば、早速それを実際に体験してみようということになりました。

 その日は、通常のサイズの画用紙をテーブルに置き、それを挟むように二人が向き合ったのですが、それはちょうど、将棋盤を囲む対局のようで、絵筆を持つ両者の間に、何とも言えない無意味な緊張感を漂よわせてしまうのが大人です。

私たち大人の足跡

 人の描いた絵の中に、自分の筆を滑り込ませていくというのは、少し申し訳ないようなソワソワする…不思議な感覚でしたが、時間と共にだんだんと持ち前の図々しさが発揮され、ズカズカと相手の領分へと分け入るうちに、なぜか互いの会話も弾んでいくのが面白い。画用紙の前に立つ者も、気の向くままに次々と入れ替っていく。その完成に対して、自分だけで責任を負わなくてよいという気楽さもあるのか、思考を止めて、指先の赴くままに筆を動かせる心地よさ…子どもたちにとっての造形活動は、こんなプロセスをふわふわと漂うことを楽しんでいるのだな…と。そして、出来上がった作品は、もうただの足跡…そんな思いも頭をよぎりました。

 先日、テラスで折り紙遊びに興じる二人の子を見かけました。丁寧に折り上げた2トーンの手裏剣を、自販機に見立てた小箱に入れて、熱心に私に教えてくれました。色の組み合わせに応じて、「桃と爆弾のジュース」「空と林檎のジュース」…こちらでは、私にはとても追いつけないくらいの想像力を…存分に「発散」させているようでした。

(令和元年9月号 園だより「ひぐらし」より)

 台風一過、いつもよりちょっと涼しげに見える園庭。ここぞとばかりに、芝刈り機を出動させました。

 いつも夕刻の、それもお隣の集合住宅の影が、園庭を覆い始める頃合いを狙うので、お迎えで行き合う家庭も、毎回、同じような家庭も多くなります。

 ちょうど、玄関から出てきたG藤父さんが、「2週に1回くらいなんですね。」と声を掛けてくれました。

 芝生の元気な夏の時期は、本当は毎日が理想的なのです。少しでも葉っぱが刈られることで、その分、今度は根っこが頑張って伸びて丈夫になり、地上の葉は、横へ横へ広がっていくのです。

 私の都合とお空の都合を合わせても、週一ペースはいけるはずなのに…。

 そんな私の作業をじっと見つめている子、芝刈り機のエンジンに負けじと大声で、「園長先生〜」と声を掛けてくれる子。その度にエンジンを止めていては、作業が進まないので、申し訳ないなと思いつつ、手を振って応えることで勘弁してもらうのですが、たまたまエンジンが止まった瞬間、「何してるの?」と間髪入れずに問いかけられることがあります。

 「芝生を刈っている」と説明しながら、「刈る」という表現は、聞きなれないだろうなと思いつつ…「切る」「短くする」…う〜ん何か違う…だんだんと私の作業の様子と「刈る」が繋がっていくのだろうと、根気よく「刈る」で説明をすることにしています。

 田んぼの稲刈り、庭や空き地の草刈り…「刈る」を身近に見る機会も減ってきた昨今。「頭を刈る」なんて表現は、もうじき通じなくなるのでしょうか。

 さて、芝をカットする芝刈り機の刃は、丁度プロペラのような形をしています。それが回転することで、芝をカットするのと同時に、その芝をプロペラの原理で吸い上げて、後方の袋に貯めていくという、とても賢い仕組みになっているのです。

 以前、私が芝刈りをしている様子を見ていた出入りの大工さんが、「溜まった芝を、ゴミ袋に移していくことが大変なんだね。」と声を掛けてきました。

 そうなのです。芝刈り機を押して園庭をまわることなんて、なんてことはない作業なのですが、溜まった芝をその都度、ゴミ袋に移していく作業が結構な手間なのです。瞬時に大変さの本質を見抜く眼は、さすが職人さんだなと感心したことを憶えています。

 そういえば、その大工さんに、「園長先生は変わってるねぇ。」と言われたことがありました。他の園では、子どもが少ない時間や、子どもがいない場所で作業してくれと言われるのだけれど、子どもたちに見えるようにやってくれって言われたのは、初めてだと言うのです。

 ギャラリーに気を使いながらの作業は、申し訳ないなと思いつつも、こういった大工仕事を、まじかで見ていられる時間の「豊かさ」を大事にしたいと思うのです。

 こうして芝生の詰まったゴミ袋が次々と園庭に転がっていくのですが、それが増えていく光景は、芝刈りをサボった証として、私の胸にも刻まれていくのです。

 作業中、唯一、こちらから声をかけることがあります。ターゲットは、園庭を横切って退勤していく職員。「帰りがけに、ひと袋、ゴミ置場に持って行ってくれる?」とお願いするため。

 「何回か往復しますよ」と気を利かしてくれる者もいるのですが、そこは、「ひと袋だけでいいんだよ」と切り返すことが大事なのです。こういった野良作業は、頑張りすぎないことが肝要。

 でないと、芝刈り機の音が聞こえた瞬間、誰も園庭に近寄らなくなる…そんな心配も…頭をよぎるのです。

(令和元年8月号 園だより「ひぐらし」より)

依頼人との関係

 このひと月あまりの間、容器(ポット)の中で育ててきた芝苗を、とり(5歳児)の子どもたちと一緒に、芝の薄くなった箇所に植えていきました。実は、ひと月前に、ポットに苗を植えてくれたのも、とりの子どもたち。

 円筒状の特殊な道具を地面に刺して抜くと、ちょうど大判焼きのような形で、ポコっと土が抜けて、穴が空きます。そこに、子どもたちが、苗を埋め込んでいくという作業になるのです。

 まず最初に、大人が穴あけした後に残ったこの大判焼きを、バケツに拾い集めます。そして、ブルーシートの上に並んでいる苗をそっと掴むと、穴を探して園庭を駆け回りながら、それを埋めていくのです。その数、ざっと500個あまりなのですが、そこは流石のとりさん、穴は次々と苗で塞がれていきました。

 最後は、先ほど集めておいた大判焼き状の土の塊をほぐした土で、この一年で園庭にできた窪みを埋めて、全体の凹凸を減らしていくという、少し高度で…地味な作業。

 苗植えというメイン作業を終了した後なので、塊をほぐすのにも飽きて、すぐに人手がなくなってしまうかな…といった心配をよそに、意外にも…バケツから塊を取ってきては、パラパラと気長にほぐして…付き合ってくれた子どもたち。

 忍耐強く最後まで仕事をやりきった…私が感心したのは、そんなことではなくて、土の塊をほぐす感触を楽しんだり、それが落ちて積もる様子を観察したり、踏んで潰す方が効率のいいのではと気づいたり、塊を何かに見立てて呟いていたり、井戸端会議さながら、隣の子と口も盛んに動かしていたり…そうした自分なりの興味や関心、過ごし方をそれぞれに見つけながら、面白そうに作業に没頭している姿でした。

 5歳児ならではの思考と技術を駆使しながら、期待に応えたいという思いを下支えに、活動を維持していく姿に、少し逞しさを垣間見た気がしたのでした。

 さて先日、ニュース番組だったか、とある青年の日常を取材する映像に、なんとはなしにチャンネルを止めました。ナレーションから、彼が、仕事の依頼人と待ち合わせてしている場面であることが察せられたのですが、なんとそれは、依頼人のそばにただ寄り添うだけの「なんもしない人」という仕事だったのです。

 交通費などの実費以外の費用は発生しないそうなので、果たして仕事なのかといった疑問もありますが、そういった依頼人たちとの関わりを綴った本人のブログが、書籍化されたことでの取材のようでした。

 SNSを土台にした、こういった新しい生き方?は、私には、度肝を抜かれることばかりなのですが、その一方で、既存の価値観に縛られない発想やその行動力に、ある種の羨望のような思いがむくむくと湧き上がることもまた、否定できないのであります。(彼がお子さんもいる家庭人であることは、さらなる驚きでした。)

 番組で取材した時は、「野遊びに付き合って」という大学生の依頼。「いい年をして、ひとりっきりで、虫や花に夢中になっている姿が恥ずかしいから」との理由だったように記憶しています。

 そういった理由に納得するしないは別にして、「作り過ぎたケーキを食べて」「引っ越しを見送って」「離婚届の提出に立ち会って」といった依頼が引きも切らない様子に、息遣いを感じる距離で「誰かに見守られていたい」…そんな大人たちの願いが伝わってくるようで…これも現代社会の一つ姿であることを実感しました。

 この「なんもしない人」に興味の尽きない私は、こんな奇抜な行動をとる若者は、大きく心を震わせない、想像以上に飄々とした感性の持ち主に違いないと、勝手な想像を膨らませながら、彼のインタビュー記事に当たってみました。

 するとそこには、「どんな人と会えるのかというワクワク感」「思わずしてあげたくなる」「自分の行動や文章に反応してもらえる喜び」…そんな、私たちとなんら変わりのない、好奇心や衝動、共感してもらえる喜びに大きく心を揺らす、若者らしい言葉が並んでいて…それを見た私は、なぜかホッとしたのでした。紆余曲折を経て、彼なりの居場所を探し当てているのかもしれません。 

 ちょっと物足りないくらいの寂しさや、少し他人の視線が気になる程度の閉塞感…「なんもしない人」の元に集まる若者たちが感じる、ほんの少しの心地悪さ。それを「何もそんなことで」と私は笑い飛ばすことはできない。

 彼らの手前には私たちがいて、彼らの向こうには、子どもたちが繋がっているのだから。 

(令和元年7月号 園だより「ひぐらし」より)

ボクの細道

 梅雨の季節と言えども、その合間に差し込む日差しは、もうすでに、夏光線。濃さを増した樹々の緑を背景に、くっきりとした濃い影が描き出す夏のコントラストに、園全体が包まれていきます。

 そこへ、満を持してプールの組み立て、2階テラスに日よけネットが張られると…誠美の夏の構えが出来上がるのです。

 こうした初夏ならではの高揚感の裏側で、保育園運営に必要な事務書類作りがピークを迎えるのも、ちょうどこの時期。

 難しい文言が並ぶパソコンの画面を睨み、う〜んと唸りながら、首を2度3度とグルグルと回していると、決まってその私の後方を、子どもたちや保育者の楽しげな声が、通過していくのでした。

 そう、私のデスクのある部屋のすぐ外が、駐車場のある表門から園舎裏の遊歩道へと続く抜け道になっているのです。

 朝夕の時間は、遊歩道からお迎えに入って来たお母さんお父さんの、少し乾いた感じの革靴の音が、コツ コツ コツ コツと近づいてくるのが聞こえます。お迎えを終えた帰り道は、パタ パタ パタ パタと遊歩道へと駆け抜けていく子どもの靴音が先に聞こえ、その音が止まったかと思うと、突然「今日、カレー?」と後方へ問いかける声が響いてくる…。

 また、そうした足音が突然に泣き声に代わることも。「あ〜、痛かったねぇ。」との声に、そこまで調子よく歩みを進めていた「よちよち歩き」の足がもつれて転倒した様子が目に浮かびます。

 左右に建物の壁が立ち上がる、まるでトンネルのようなこの狭い空間は、なぜか冒険心のようなものがくすぐられ、自分の足でくぐり通り抜けてみたくなる…そんな「抜け道」なのです。

 聞くともなしに聞こえてくるこうした「音」の連鎖に、仕事の手を止め、壁の向こうの親子の姿と心情を思い描きながら、「うんうん」と腕組みをして、感じ入ってしまうのです。

 さて、この抜け道の日中の通行人は、お散歩へ向かう子どもたちと保育者。

 園外から帰って来た時…「俺、一番!」と声をあげながら、全速力で駆け抜けていく足音や、後から到着した友だちを、脅かそうと「ば〜!」と物陰から投げ掛けられるいくつもの声。

 戻ってくるみんなを、達成感や安堵感で満たしてくれるこの特別な空間。子どもたちや保育者によって繰り広げられる、その時々の様々な「音」の応酬から、園外で味わった興奮の余韻のようなものが、私にも伝わってきます。

 この抜け道の途中に、ちょうど食材の搬入口があります。お散歩から帰る頃には、ここにも料理の匂いが立ち込み始めて、ちょうどお腹も空いてきた通行人たちが…思わず搬入口の呼び鈴を押してしまうようで、給食スタッフと会話する声が、よく聞こえてきます。この日も、レンコンやゴボウなどを囲んで、何やらやり取りが続いているようでした。

 こうした日常のささやかな「食」を介したヒト(作り手)やモノ(食材)との出会いを重ねていくことが、食育活動そのものであることを実感する場面です。

 朝から晩まで…こんな抜け道で、様々なドラマが生まれています。起こっている「事」は、どこにでもある他愛のない出来事なのですが、それぞれにとっては特別な「意味」を持つ経験なのです。

 お気付きかもしれませんが、今少しずつ、園内の保育記録の掲示の書きぶりを変えていこうと試行錯誤を始めました。それはまさに、今まで以上に「事」から「意味」へと表現をシフトしていこうとする試みで、「何をしたか」より、「どんな(意味の)経験だったのか」にフォーカスしていきたいとの考えからです。

 しかし、担任に対する集団規模が大きい学年になるに従い、それぞれに異なるはずの経験の意味を、毎日全て網羅することは不可能です。なので、ある場面に着目した写真やコメントが増えていく一方で、「何をしたか」といった全体を、網羅的に説明する写真や、ご自身のお子さんが写り込んだ写真も少なくなるかもしれません。限られた時間の中では、内容を絞らざるを得ないことを、ご理解いただければ幸いです。

 描かれていくのは、限られた場面なのかもしれませんが、そうした日々の記録を読み重ねていく中で、「何をしたか」以上に、どんな経験が期待されて、次なる展開の中に何が意図されているのかを感じてもらえる…そんな記録のあり方を、目指していきたいと思っています。

 何が描かれるかより、私たちの見えないところでも、それぞれに意味ある経験が生まれていくことこそが大事なことです。特定の場面であっても、それを表現し、振り返り、意味を問うてみることを重ねることが、そこここで繰り広げられる、みんなの経験の質を上げていく…。

 そう信じて。

(令和元年6月号 園だより「ひぐらし」より)

土と戯れて、令和

 薄緑色の新緑から活力をもらいながら、一年で一番爽やかな季節、元号の改まった五月を過ごしています。

 親父の会のみなさんによる4月の畝作りを合図に、鉢に、プランターに、ビニール袋に…そして、畑、園庭デッキ前、2階テラス、駐車場…園内のいたるところで、苗植えが始まっていきました。

 毎年の連作で、酷使され続けている誠美の畑。とある親父さんの進言で、今年から土壌改良も同時進めていくことになりました。

 かつての現代っ子だった職員たちも、こういった園芸や農作業を体で覚えているはずもなく…現代人よろしく、ググってはまたググる…を重ねています。少し頭でっかちになりながら、収穫増とバリエーション拡大に向かって、がむしゃらに挑んでいく姿は、もうひとりの子どもといった感じ。

 不安とプレッシャーを抱えながらも、収穫への期待を、少し高揚した口調で語るその言葉を聴きながら、「作物を育てる」ということの魅力というものを、改めて感じるのでした。

 「育てる」と言えば、私たちは真っ先に、「子どもたち」を思い浮かべるのですが、日単位、週単位で、ぐんぐんと伸びる植物の成長スピードというのは、また違った感動があります。

 また、動物と違って、移動もできず、能動的に意思を伝えては来ないので、完全なる己の庇護の元で守り育てている実感が持ちやすいということもあるのかもしれません。

 であるがゆえに、世話を焼いていた草木が枯れると、ものすごい自己嫌悪にも陥りますよね。

 植え方、日の当て方、水のやり方、肥料のやり方…つまり、自分の関わり方や考えかたの良し悪しが、評価されてしまったような…理由もよくわからないまま否定されてしまったような…そんな気持ちになることがあります。

 その一方で、大輪の花を咲かせたり、たくさんの実が収穫できたりした時の喜びは、何とも言えないものです。

 その成果は、紛れもなく、自分の働きかけによるもので、その持続力や忍耐力、知恵や努力、そういった「プロセス全体」、さらに言えば、毎日の生き方が評価されたように感じる気がします。

 そして、種や苗だったものが、明らかに大きく姿形を変えることを目の当たりにして、自分が相手に何らかの影響を及ぼした実感…有能感のようなものを感じるから…嬉しいのです。

 「育てる」という行為は、自分自身を映し出す鏡なのかもしれません。

 自分の行動や考えを、自分の得手不得手を、自分の駄目なところや、悪くないなといったところを、自分が大事にしていたことや、自分にない価値観を…振り返らせてくれる、気づかせてくれる、それを容赦なく、遠慮なく突きつけてくるのが、「育てる」という営みなのかもしれません。

 だから、この「育てる」という行為を、子どもたちなりに経験してみて欲しい…そう大人たちは願うのではないでしょうか。

 そして、プランターに撒く種や開ける穴の数を数えたり、苗木を支える丈夫な支柱を組んでみたり、子どもも大人も試されることばかりが続いていきます。

 育てることは、育てられること…満たしてくれるのは、お腹ばかりではないのです。

(令和元年5月号 園だより「ひぐらし」より)

大げさに言うのなら

 まだコートが手放せないくらいの肌寒さを感じつつも、桜の開花と共に、今年度をスタートすることができました。

 新入園のご家庭と一緒にスタートを切る、毎年のなかよし会(入園式)。そのほとんどが、0〜1歳児という時代になっていくに従い、会の諸々を削ぎ落としていった結果、自己紹介、つまりお互いの名前を「名乗る」というところだけを残した、シンプルな今のスタイルに落ち着ちついていきました。

 これだけはなくならない…「名前」というものが持つ、特別な意味合い…そこには、自分の存在を意識したり、時にはその尊厳にも繋がる、大事な思い入れがあるからかもしれないなと、今年も、たくさんの名前が飛び交う会場の声を聴きながら、あらためて考えていました。

 先日、自分が描いた絵の片隅に、自分の名前を記そうとする3歳児の様子を追った、K田保育士の保育記録を目にしました。(歩の記として、ご家庭に渡るのかもしれません。)

 文字といっても、様々に歪んだ◯が並ぶだけの、「らしきもの」なのですが、実はそれは、その丸い粒の一つ一つが、自分の名前が発音される時に聞こえる「音節」に対応していること、つまり日本語の発音と文字の繋がり方に、自分なりに気づき初めている証なのです。

 そしてそれは、普段の様々な遊びの中で育まれた指先の力や運動能力、そして周囲の様子を見聞きした経験などが下支えとなって、総合的に生み出された思考なのだと、その記録の中で考察されていました。

 さらに、そもそも、こうした「言葉」全体に対する関心を牽引していったものこそが、自分が一番親しみのある言葉…自分の「名前」の存在なのだと、その記録は結ばれていました。

 それを呼ばれているうちに、いつしかその音の響きまでもが、自分自身と渾然一体となる。そして、自分の存在や価値を確認したくて、自分を客観的に位置づけてみたくなった時、人は「文字」として、自身の分身として、それをどこかに刻み込んでみたくなる…自分の名を書き込んだ子の思いを、少し大げさに言えば、そういうことなのかもしれません。

 八百万(やおろず)の神々が暮らす異世界に迷い込んだ少女、千尋…有名なアニメ映画がありますね。

 その異世界での数少ない味方の「ハク」から、

 「湯婆婆は相手の名前を奪って支配するんだ。」

 と教えられ、本当の名前を隠し、「千」を名乗り続けた彼女。

 「名前が奪われると帰り道がわからなくなるんだよ。」

 と、そのハク自身も、本当の名前を思い出せずに苦しんでいた…そんな場面を思い出しました。

 本当の自分を守るため、現実と非現実の世界を分けたのが名前なら、音の言葉の世界から、文字の世界へといざなってくれたのも自分の名前。

 二つの世界の境界線の上で、それぞれの意味や価値の、橋渡しをしてくれているのが、名前なのかもしれません。

 あなたと私。みんなと私。名前を伝え合うことは、互いの世界が持つ価値観を、伝え合っていくこと、知り合っていくこと、そして、認め合っていくこと…そんな覚悟の宣言なのです。

 ようこそ、誠美保育園へ。
 ようこそ、新クラスへ

(平成31年4月号 園だより「ひぐらし」より)

アラサー超えの先へ

 年度の終わりと始まりが交差するこの季節。別れと出会い、寂しさと期待感…ちょうど三寒四温に揺さぶられるように、私たちの胸の内も、「しみじみ」と「ワクワク」を行き来しながら、少しせわしない年度末を転がっていきます。

 今年度、当園は30歳になりました。平成元年、この地域のニュータウン開発と同時に開園したことを考えると、この地域と、そして元号と共に歩んだ30年でもありました。

 「平成とはどんな時代でした?」といったテレビの街頭インタビューを見かけました。連続的に続いていく時の流れを、期間を区切って、その意味を問われても…最初はそう思いながら眺めていたのですが、意味合いはともかく、偶然とはいえ、当園やこの地域も、元号と同じ一つの節目を迎えるのだという感慨が、徐々に湧き上がって来たのでした。

 すると色々なことが思い出され、そういえばと思って調べてみると、案の定、インターネット上で、画像と文字を使って情報をシェアしていく技術…「ホームページ」というアイデアと方法が生まれたのも、ちょうど30年前のこと。(それに触れた時の驚きは今でも忘れません。歳がバレますが。)

 その後のパソコン、インターネット、メール、携帯電話にスマホ…通信技術や情報革命といったものも、平成という時代を象徴するものの一つです。 

 実は、先日の平成最後の卒園式でも、そういった時代の節目の話題を入り口に、話を進めていきました。

 というのも、卒園児の保護者のみなさんの多くは、物心ついた頃には、この平成という時代の中にいて、人生のほとんどをそこで生きて来たこと。そして、この後、さらに30年を経ると、目の前の我が子が、ちょうど、今の自分たちと同世代となること。

 この30年という物差しが、その場に居合わせた私たちの、様々な節目や意味合いを測ったり繋いだりするために、ちょうど良い長さだと思ったからでした。

 そして、こう話は続いていきました。

 「答えを探すのではなく、答えを創る時代」…子どもたちはそういう時代を生きていくのだと思います。人口減少、高齢化社会、エネルギー問題、気候変動、AI社会、移民問題…こういったことに一つ一つ答えを出していかねばならないのです。私は、今の生活が快適であればあるほど、そういった問題を先送りして、子どもたちに付け回している気がして、少し居心地が悪くなります。

 子どもと私たち大人の世代だって、繋がっています。決して別の時間、別の世界を生きているわけではなく「今」を共に生きる仲間…そう考えると、子どもの「将来」に期待するだけではなく、私たち大人も「今」に責任を持つために、「育つ」必要があるように思うのです。

 育つことは、変わること…変わることは、決して、それまでの自分を否定することではない…現に子どもがそうであるように。子どもたちと一緒に、大人も学び、変わっていきたい…。

 そんなこと、話したような気がします。

 実は、私たちに関わるもので…生まれて30年目を迎えるものが…まだあります。それは、懇談会でも度々お話をする「子どもの権利条約」です。

 すっかり成熟した近代社会を私たちは生きているように感じていますが、私が子どもの頃には、まだ存在しなかったこの国際条約は、「ホームページ」と同じくらいの歴史しかないのです。

 ちょうど今、「しつけとしての体罰禁止」が、法制化に向けて動き出したところですが、「子どもの権利」に対する私たちの理解や解釈は、まだまだ途上にあるのかもしれません。

 そうした「子どもの権利」の中核は、私は「意見表明権」だと感じています。

 まだ言葉を持たない子どもたちを想定した時、それは「声や思いを聞き取られる権利」と言い換えることができるのかもしれません。

 仕方ないとはいえ、保育園や学校へ行くことも含めて、大人の決めた枠組みの中で、子どもたちは生きています。そこに自己主張はなく、むしろ大人の期待に何とか応えようとする姿さえあります。

 だからこそ、聞き取ろうとする私たち大人の姿勢が問われているのだと思うのです。それが「聞き取られる」権利です。

 こんな式辞を保護者に語り終えた後、再度、子どもたちに向き直った瞬間、一斉に湧き上がった、みんなの嘆き節。

 「もう、話、長〜い!」

 そうそう、それでいい…伝えたいことは、言葉にしていいんだ…それが、私とみんなの関係…だって、そうは言いながら、じっと待っていてくれたじゃないか…そのことが嬉しい…だってそれこそが、優しさなのだから。

(平成31年3月号 園だより「ひぐらし」より)

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 うみぐみ(3歳児)の保育室に飛び込んだ時には、ちょうど担任が、絵本を読んでいる真っ最中でした。その日は、みんなで保育を観察する研究保育の日。

IMG 9205 Fotor 10人ほどの子どもたちが、熱心に聞き入っていたのですが、中には少し離れた場所で、集団に背を向け、別の遊びに取り組んでいる子もいるようでした。するとその子は、手を止め顔をあげると、すっと立ち上がって、物語の声に引き寄せられるように、ススーっとその集団の後方、絵本の絵がよく見える位置に移動し、じっと話に聞き入っている様子でした。

 目は手元の玩具に落ちていたように見えても、実は、耳と心は、絵本を囲む集まりの中にあったのだと、この時にわかりました。

IMG 9212 Fotor 私たち大人は、子どもたちが集団で「なかよく」遊んだり、活動する姿を期待します。そして「なかよく」という言葉の中に、「足並みを揃え、みんなと同じように行動してほしい」という思いを込めてしまいがちです。しかし、みんなと過ごす方法、集団活動への参加の仕方一つとっても、個性や段階、そしてその時々の状況や気持ちで、様々な「あり方」があるものだと…学んだ一コマでした。

 また、それを認め合っていくクラスの雰囲気、それら個と集団の間を塩梅よく取り持つ、担任たちの働きかけに感心しました。

 木の部屋に移動してみると、そこには、うみぐみのもう一つのグループが、寒天を使ったゼリーを作っていました。これは、年間を通して楽しんでいる「感触遊び」の中で、材料を混ぜ合わせることで、サラサラからドロドロへといった、「状態」が変化する面白さに気づいた子どもの声から、生まれた活動なのだそうです。

IMG 9227 Fotor こういったモノの状態の「変化」が面白いと感じる背景には、それが何に生まれる変わるのかという「期待感」があるからで、これは、この先の未来を予想しようとする力とも言えます。つまりこの3〜4歳くらいから、時間の流れという感覚がはっきりしてくる、そして徐々にその中に我が身を置けるようになっていくのです。

 記憶喪失の大人が激しい不安感に襲われるといったことからもわかるように、過去や未来といった時間軸の中で、今の自分の居場所を感じていくことは、人として安心感を持って生きていくために、欠かせない力なのです。

 手渡されたまだ乾燥したカサカサの寒天を、思わずかじってしまう子、「こっちが硬い」「これ小さい」「サラサラ」「プルンプルン」「やめて!」「やってあげるよ」「喧嘩、うるさい!」「いい色でしょ?」…こうした、まだ少し衝動的で、遠慮のない喜怒哀楽の表出は、まさに3歳児らしい姿…「自分の王国」を生きる姿です。

 それに伴って、隣国との摩擦も増えるので、我が世の春ももはや…と気づき始めるのもまた、この時期なのです。

IMG 9276 Fotor 不器用に、衝動的に、あちこちに気を散らしながら…大いに失敗も楽しんでいく。大らかに見守るほどに、他者とのぶつかり合いは増えていくのです。

  「他者の中をくぐりながら、自分を磨いていく…それが3歳児」

  午後のカンファレンス(意見交換会)で、印象的な表現を耳にしました。「ぶつかる」経験だけでよしとせず、その後の思いに最後まで寄り添い切る…それが「くぐらせる」ということ。傍に大人がいる意味は、そこにあるのだと思いました。

IMG 9279 Fotor それに続く園庭遊び。基地なのか街なのか…仲間でイメージの世界を漂いながら、ビールケースや板切れなど園庭に転がるガラクタで…一見無作為に、無造作に組み上げられた、大きな環状の構築物(表題部分の背景写真)。

 このゴチャゴチャっと積み上がった無秩序なオブジェに…均衡を感じるのは…かっこよく見えるのは…心惹かれるのは…一体なぜなのでしょうか。

(平成31年2月号 園だより「ひぐらし」より)

3歳の憂鬱

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 年越しにお迎えする歳神様は、正月が開けるまでの間、鏡餅の中に宿ると言われています。その鏡餅をお供えするために、年末に餅つきを行うものなのですが、地域のイベントを兼ねるようになった近年では、正に師走だからなのか、何となく忙しない年末を避け、年明けの小正月やどんど焼きなどに合わせて、餅をつくことも多くなったような気がします。

 みんなが今突いているお餅は、実は「お米」であることを知って欲しくて、毎年の年末の餅つきでは、それをかまどで蒸している様子や、ご飯になる「うるち米」と、お餅になる「もち米」を、かまどの前に並べて置くようにしています。

 今年も、その皿を台の上に並べながら…「ちくわ」や「かまぼこ」が、魚のすり身であることを、それがどんな種類の魚なのかということを、子どもたちに伝えることに、あまりこだわらないのはなぜだろう…そんなことに思いをめぐらしていました。お餅もいずれ、「切り餅」という加工食品として、何から出来ているのかになんて、誰もこだわらなくなる…そんな日が、やってくるのでしょうか。

 この2種類の米粒の入った皿。意外に子どもたちは興味を持ってくれます。

 4〜5歳くらいの子は、米粒の色や形や大きさの違いなどにも、すぐに気づいて、私に教えてくれます。そして、いくつかの質問によって、自分なりの推論を組み立てながら、この2種類のお米が、それぞれ別の食べ物に結びついていることに納得していくようです。

 しかし、彼IMG 9173らはそれに満足すると、さっさと別の遊びに向かってしまうのですが、ここに一番長居をしていくのが、実は3歳前後、今の時期の「はなぐみ」の子どもたちなのです。

 とりあえず、私に問いかけたりはするのですが、もっぱら、シャカシャカと米粒をかき混ぜながら、その感触や動きを楽しんでいるようです。しばらくすると、大半がお皿からこぼれてしまうので、「混ざらないように、元のお皿に戻してね。」と声をかけると、2種類のお米の違いを見分け、器用に米粒を摘んで分けていくのです。

 進級したての春からの成長に感動すると同時に、生まれてたった3年で、こんなに緻密で複雑な判断と作業ができるのかと驚いてしまうのでした。

 さてさて、先日から巷を賑わせているのが、テニスの全豪オープンで優勝した大坂なおみ選手です。

 その活躍もさることながら、彼女のユニークなコメントも、よく話題となるのですが、先日の会見でも、試合で追い込まれた時の己れの精神力の弱さを、「まるで3歳児のよう」と表現していました。

 それを聞きながら、以前映像で見た、形勢が不利となった試合で、「もうコートに戻りたくない!」と駄々っ子のような言葉をコーチにぶつけていた彼女の姿を思い出して、確かに、ちょうど3歳児のようで、いいところを突いているな、と私も思わず頬を緩めたのでした。

 そして、優勝後の会見では、「今日で5歳かな。」と、今大会での勝因に、精神力の成長をあげた彼女。

 まだまだ、自分の願いの中だけで生きようとする天真爛漫な3歳児と、状況を受け入れ、周囲と折り合いをつけ始める5歳児。

 謙虚な彼女は、「少しは、成長できたかな」くらいの意味を「5歳」に込めたのかもしれませんが、劣勢に陥った時、目を閉じ、懸命に気持ちをコントロールしようと、必死に何かを念ずるような決勝戦での彼女の姿を重ねた時、この3歳と5歳という表現は、厳密な発達的な意味合いにおいても、案外当たっているのかもしれないな…と、彼女のコメントを聴きながら、そんなどうでもいいことを考えていました。

 そして、気持ち切り替えるために彼女が自分に言い聞かせたのは、「素晴らしい相手とプレーしている」という言葉。つまり、今の辛い状況は、そういった幸運な状況の裏返し…だから、それを楽しまなければ損…そんなメッセージに、私には聞こえました。

 時には3歳児のような思いにも駆られる私たちが、気持ちを切り替えるコツ、逆境を乗り越える術は、むしろその状況への「感謝」なのかもしれません。

 それでは、正真正銘の3歳児はどうしていけばいいのでしょうか。子どもの願い、思い、時にはわがままであっても、「そうなんだね。」と、まずは十分に受け止めてあげること。そして、「いいんだよ」「なるほど」、時には「でもね」と切り返していくこと。

 いいリターンが、どうやら勝負を決するようなのです。

(平成31年1月号 園だより「ひぐらし」より)

表現しないという表現

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幼児期や学童期も含め、保育・教育の世界にいると、絶えず、表現活動のあり方について考えさせられます。 運動会、作品展、発表会なども代表例なのですが、園生活を通した子どもと保護者の接点には、そのほとんどが「表現活動」を披露する場が設定されていることがわかります。

IMG 9117私たち大人は、なぜこれほど、子どもたちの表現の場にこだわるのでしょうか。

私たち大人どうしは、友人や知人に、これほどまでに何らかの表現パフォーマンスを求めることなく、人間関係を築いています。それはきっと、巧みな言葉の表現や、幅広い選択肢の中から選ばれた行動を見ることで、その考えや価値観を汲み取っているからなのかもしれませんね。 そういったものが、まだ見えにくい子どもたちが、一体何を思い描いて生きているのか…それを知りたくて、感じたくて、表現の場を求めているはずだと思うのです。

「ライブ型」と「展示型」。人が他者に何かを伝えるためのパフォーマンスには大きく二つの方法があるように思いIMG 9094ます。前者は演奏や演劇、後者は造形や文筆のようなものが代表例でしょうか。保育園や学校で言えば、前者が運動会や発表会、学芸会、後者が作品展や展覧会。 皆さんは、ライブ型パフォーマーでしょうか、それとも展示型パフォーマーでしょうか。これだって得手不得手がありますし、両方とも苦手な人だって多いのではないでしょうか。

それくらい、大勢の前で何かを表現するのって難しい。 ましてや子どもにとっては、人前がはずかしいなんて当たり前、ごっこや劇遊びは即興だし、絵画や工作なんて気が向いた時に思うがままに楽しむもの。全てのパフォーマンスは、まだ自分に向けて繰り広げられている時代なのです。

IMG 9114そういう意味では、子どもたちは、まだ未熟なパフォーマーなのかもしれませんが、立派な「表現者」であることには変わりありませんので、そこはぜひ、注意深く見守っていきたいところです。なぜなら、子どもたちだけでは、まだまだその環境や材料を準備していくことが難しく、そして、ちょっとした段差を超えていく時にも、私たち大人の下支えも必要になるからです。

運動会に続いて、先日のお楽しみ会でも、新たな表現の場を目指し、色々な試みを取り入れていきました。 そんな数ヶ月を振り返ってみた時、私たちは「ライブ型」や「展示型」でもない、実は「ドキュメンタリー型」とでもいうべき、第三の形に取り組もうとしていたことに気がつきました。

IMG 9100「表現するための表現」には、まだこの幼児期は、意欲的でない子も多いものですが、当たり前のことですが、どんな子の日常も、実は「表現」に満ち溢れています。お楽しみ会の当日、保護者のみなさんを、スイーツのお店やさんごっこでお迎えしたように、実験、コマ回し、けん玉、体操、サッカー、劇、歌、マジックと、それぞれが見せたい遊びを選んでいったように、それぞれの日常のパフォーマンスをそこに「再現」しようとしていた…そんな表現の場だったような気がするのです。

「情熱大陸」「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」「プロフェッショナル仕事の流儀」「プロジェクトX」…人の活動プロセス(ドキュメンタリー)には価値観や考え方、その人らしさが滲み出る…日常を生きる姿こそがパフォーIMG 9109マンス。人前が苦手だって、手先が不器用だって、速く走れなくたって、本当は誰もがカッコいいパフォーマーなのだと思うのです。(皆さんだって!)

その子らしさは、それぞれの毎日の「生き様」に現れる…保育園でのそれを、みんなで感じ合うことを求めて…この秋を過ごしてきたのかもしれません。

(平成30年12月号 園だより「ひぐらし」より)

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