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 うみぐみ(3歳児)の保育室に飛び込んだ時には、ちょうど担任が、絵本を読んでいる真っ最中でした。その日は、みんなで保育を観察する研究保育の日。

IMG 9205 Fotor 10人ほどの子どもたちが、熱心に聞き入っていたのですが、中には少し離れた場所で、集団に背を向け、別の遊びに取り組んでいる子もいるようでした。するとその子は、手を止め顔をあげると、すっと立ち上がって、物語の声に引き寄せられるように、ススーっとその集団の後方、絵本の絵がよく見える位置に移動し、じっと話に聞き入っている様子でした。

 目は手元の玩具に落ちていたように見えても、実は、耳と心は、絵本を囲む集まりの中にあったのだと、この時にわかりました。

IMG 9212 Fotor 私たち大人は、子どもたちが集団で「なかよく」遊んだり、活動する姿を期待します。そして「なかよく」という言葉の中に、「足並みを揃え、みんなと同じように行動してほしい」という思いを込めてしまいがちです。しかし、みんなと過ごす方法、集団活動への参加の仕方一つとっても、個性や段階、そしてその時々の状況や気持ちで、様々な「あり方」があるものだと…学んだ一コマでした。

 また、それを認め合っていくクラスの雰囲気、それら個と集団の間を塩梅よく取り持つ、担任たちの働きかけに感心しました。

 木の部屋に移動してみると、そこには、うみぐみのもう一つのグループが、寒天を使ったゼリーを作っていました。これは、年間を通して楽しんでいる「感触遊び」の中で、材料を混ぜ合わせることで、サラサラからドロドロへといった、「状態」が変化する面白さに気づいた子どもの声から、生まれた活動なのだそうです。

IMG 9227 Fotor こういったモノの状態の「変化」が面白いと感じる背景には、それが何に生まれる変わるのかという「期待感」があるからで、これは、この先の未来を予想しようとする力とも言えます。つまりこの3〜4歳くらいから、時間の流れという感覚がはっきりしてくる、そして徐々にその中に我が身を置けるようになっていくのです。

 記憶喪失の大人が激しい不安感に襲われるといったことからもわかるように、過去や未来といった時間軸の中で、今の自分の居場所を感じていくことは、人として安心感を持って生きていくために、欠かせない力なのです。

 手渡されたまだ乾燥したカサカサの寒天を、思わずかじってしまう子、「こっちが硬い」「これ小さい」「サラサラ」「プルンプルン」「やめて!」「やってあげるよ」「喧嘩、うるさい!」「いい色でしょ?」…こうした、まだ少し衝動的で、遠慮のない喜怒哀楽の表出は、まさに3歳児らしい姿…「自分の王国」を生きる姿です。

 それに伴って、隣国との摩擦も増えるので、我が世の春ももはや…と気づき始めるのもまた、この時期なのです。

IMG 9276 Fotor 不器用に、衝動的に、あちこちに気を散らしながら…大いに失敗も楽しんでいく。大らかに見守るほどに、他者とのぶつかり合いは増えていくのです。

  「他者の中をくぐりながら、自分を磨いていく…それが3歳児」

  午後のカンファレンス(意見交換会)で、印象的な表現を耳にしました。「ぶつかる」経験だけでよしとせず、その後の思いに最後まで寄り添い切る…それが「くぐらせる」ということ。傍に大人がいる意味は、そこにあるのだと思いました。

IMG 9279 Fotor それに続く園庭遊び。基地なのか街なのか…仲間でイメージの世界を漂いながら、ビールケースや板切れなど園庭に転がるガラクタで…一見無作為に、無造作に組み上げられた、大きな環状の構築物(表題部分の背景写真)。

 このゴチャゴチャっと積み上がった無秩序なオブジェに…均衡を感じるのは…かっこよく見えるのは…心惹かれるのは…一体なぜなのでしょうか。

(平成31年2月号 園だより「ひぐらし」より)

3歳の憂鬱

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 年越しにお迎えする歳神様は、正月が開けるまでの間、鏡餅の中に宿ると言われています。その鏡餅をお供えするために、年末に餅つきを行うものなのですが、地域のイベントを兼ねるようになった近年では、正に師走だからなのか、何となく忙しない年末を避け、年明けの小正月やどんど焼きなどに合わせて、餅をつくことも多くなったような気がします。

 みんなが今突いているお餅は、実は「お米」であることを知って欲しくて、毎年の年末の餅つきでは、それをかまどで蒸している様子や、ご飯になる「うるち米」と、お餅になる「もち米」を、かまどの前に並べて置くようにしています。

 今年も、その皿を台の上に並べながら…「ちくわ」や「かまぼこ」が、魚のすり身であることを、それがどんな種類の魚なのかということを、子どもたちに伝えることに、あまりこだわらないのはなぜだろう…そんなことに思いをめぐらしていました。お餅もいずれ、「切り餅」という加工食品として、何から出来ているのかになんて、誰もこだわらなくなる…そんな日が、やってくるのでしょうか。

 この2種類の米粒の入った皿。意外に子どもたちは興味を持ってくれます。

 4〜5歳くらいの子は、米粒の色や形や大きさの違いなどにも、すぐに気づいて、私に教えてくれます。そして、いくつかの質問によって、自分なりの推論を組み立てながら、この2種類のお米が、それぞれ別の食べ物に結びついていることに納得していくようです。

 しかし、彼IMG 9173らはそれに満足すると、さっさと別の遊びに向かってしまうのですが、ここに一番長居をしていくのが、実は3歳前後、今の時期の「はなぐみ」の子どもたちなのです。

 とりあえず、私に問いかけたりはするのですが、もっぱら、シャカシャカと米粒をかき混ぜながら、その感触や動きを楽しんでいるようです。しばらくすると、大半がお皿からこぼれてしまうので、「混ざらないように、元のお皿に戻してね。」と声をかけると、2種類のお米の違いを見分け、器用に米粒を摘んで分けていくのです。

 進級したての春からの成長に感動すると同時に、生まれてたった3年で、こんなに緻密で複雑な判断と作業ができるのかと驚いてしまうのでした。

 さてさて、先日から巷を賑わせているのが、テニスの全豪オープンで優勝した大坂なおみ選手です。

 その活躍もさることながら、彼女のユニークなコメントも、よく話題となるのですが、先日の会見でも、試合で追い込まれた時の己れの精神力の弱さを、「まるで3歳児のよう」と表現していました。

 それを聞きながら、以前映像で見た、形勢が不利となった試合で、「もうコートに戻りたくない!」と駄々っ子のような言葉をコーチにぶつけていた彼女の姿を思い出して、確かに、ちょうど3歳児のようで、いいところを突いているな、と私も思わず頬を緩めたのでした。

 そして、優勝後の会見では、「今日で5歳かな。」と、今大会での勝因に、精神力の成長をあげた彼女。

 まだまだ、自分の願いの中だけで生きようとする天真爛漫な3歳児と、状況を受け入れ、周囲と折り合いをつけ始める5歳児。

 謙虚な彼女は、「少しは、成長できたかな」くらいの意味を「5歳」に込めたのかもしれませんが、劣勢に陥った時、目を閉じ、懸命に気持ちをコントロールしようと、必死に何かを念ずるような決勝戦での彼女の姿を重ねた時、この3歳と5歳という表現は、厳密な発達的な意味合いにおいても、案外当たっているのかもしれないな…と、彼女のコメントを聴きながら、そんなどうでもいいことを考えていました。

 そして、気持ち切り替えるために彼女が自分に言い聞かせたのは、「素晴らしい相手とプレーしている」という言葉。つまり、今の辛い状況は、そういった幸運な状況の裏返し…だから、それを楽しまなければ損…そんなメッセージに、私には聞こえました。

 時には3歳児のような思いにも駆られる私たちが、気持ちを切り替えるコツ、逆境を乗り越える術は、むしろその状況への「感謝」なのかもしれません。

 それでは、正真正銘の3歳児はどうしていけばいいのでしょうか。子どもの願い、思い、時にはわがままであっても、「そうなんだね。」と、まずは十分に受け止めてあげること。そして、「いいんだよ」「なるほど」、時には「でもね」と切り返していくこと。

 いいリターンが、どうやら勝負を決するようなのです。

(平成31年1月号 園だより「ひぐらし」より)

表現しないという表現

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幼児期や学童期も含め、保育・教育の世界にいると、絶えず、表現活動のあり方について考えさせられます。 運動会、作品展、発表会なども代表例なのですが、園生活を通した子どもと保護者の接点には、そのほとんどが「表現活動」を披露する場が設定されていることがわかります。

IMG 9117私たち大人は、なぜこれほど、子どもたちの表現の場にこだわるのでしょうか。

私たち大人どうしは、友人や知人に、これほどまでに何らかの表現パフォーマンスを求めることなく、人間関係を築いています。それはきっと、巧みな言葉の表現や、幅広い選択肢の中から選ばれた行動を見ることで、その考えや価値観を汲み取っているからなのかもしれませんね。 そういったものが、まだ見えにくい子どもたちが、一体何を思い描いて生きているのか…それを知りたくて、感じたくて、表現の場を求めているはずだと思うのです。

「ライブ型」と「展示型」。人が他者に何かを伝えるためのパフォーマンスには大きく二つの方法があるように思いIMG 9094ます。前者は演奏や演劇、後者は造形や文筆のようなものが代表例でしょうか。保育園や学校で言えば、前者が運動会や発表会、学芸会、後者が作品展や展覧会。 皆さんは、ライブ型パフォーマーでしょうか、それとも展示型パフォーマーでしょうか。これだって得手不得手がありますし、両方とも苦手な人だって多いのではないでしょうか。

それくらい、大勢の前で何かを表現するのって難しい。 ましてや子どもにとっては、人前がはずかしいなんて当たり前、ごっこや劇遊びは即興だし、絵画や工作なんて気が向いた時に思うがままに楽しむもの。全てのパフォーマンスは、まだ自分に向けて繰り広げられている時代なのです。

IMG 9114そういう意味では、子どもたちは、まだ未熟なパフォーマーなのかもしれませんが、立派な「表現者」であることには変わりありませんので、そこはぜひ、注意深く見守っていきたいところです。なぜなら、子どもたちだけでは、まだまだその環境や材料を準備していくことが難しく、そして、ちょっとした段差を超えていく時にも、私たち大人の下支えも必要になるからです。

運動会に続いて、先日のお楽しみ会でも、新たな表現の場を目指し、色々な試みを取り入れていきました。 そんな数ヶ月を振り返ってみた時、私たちは「ライブ型」や「展示型」でもない、実は「ドキュメンタリー型」とでもいうべき、第三の形に取り組もうとしていたことに気がつきました。

IMG 9100「表現するための表現」には、まだこの幼児期は、意欲的でない子も多いものですが、当たり前のことですが、どんな子の日常も、実は「表現」に満ち溢れています。お楽しみ会の当日、保護者のみなさんを、スイーツのお店やさんごっこでお迎えしたように、実験、コマ回し、けん玉、体操、サッカー、劇、歌、マジックと、それぞれが見せたい遊びを選んでいったように、それぞれの日常のパフォーマンスをそこに「再現」しようとしていた…そんな表現の場だったような気がするのです。

「情熱大陸」「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」「プロフェッショナル仕事の流儀」「プロジェクトX」…人の活動プロセス(ドキュメンタリー)には価値観や考え方、その人らしさが滲み出る…日常を生きる姿こそがパフォーIMG 9109マンス。人前が苦手だって、手先が不器用だって、速く走れなくたって、本当は誰もがカッコいいパフォーマーなのだと思うのです。(皆さんだって!)

その子らしさは、それぞれの毎日の「生き様」に現れる…保育園でのそれを、みんなで感じ合うことを求めて…この秋を過ごしてきたのかもしれません。

(平成30年12月号 園だより「ひぐらし」より)

秋とレイン棒

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爽やかな秋晴れの日、落ち葉に覆われた園外へと出かけた、にじぐみ(1歳児クラス)の子どもたち。この年齢ならではの、子どもたちの姿を追ってみました。

見る・聞く

今月の題字の背景写真…みんなで飛び去る飛行機を見送っている姿なのですが…これもこの時期にグッと伸びてくる「共同注視」という育ち。同じものを見ながら言葉を交わしながら…やがて他者と、思いを共有できるようになっていくための、重要なステップなのです。
今年は、子どもたちの「音」への関心に着目して保育を組み立ててきた、にじぐみの担任たち。カサカサと風に鳴る葉音に瞬時に気づき、さっと樹木を仰ぎ見た子どもの姿を見て、だからなのだね、と納得しました。

握る

ものを握る動作がしっかりしてくるのもこのくらいの時期。この日も、ほぼ全員と言っていいほど、棒を握っている瞬間がありました。そして、その棒で、落ち葉をかき分けたり、土に差し込んで見たり、何かを叩いて音を出してみたりと、棒を「道具」として使い始めていることが本当によくわかります。
そして反対に、周囲に構わずただそれを振り回す友だちには、それを諌める子までいて…道具として使うことの意味がわかることと一体的に、こうした道徳観というものも、少しずつ育まれていくのだなと感じました。

登る・滑る

そこに段差があるから…これが子どもたちが登る理由。良くも悪くも大人サイズの街設計。そこを移動するために乗り越えるべき障壁は、子どもにとっては高く、そして何とかしてそれを越えたいという思いは、それ以上に大きい。
全身全霊を投じて段差に挑んでいく姿を見ていると、バリアフリーとは、果たして子どもにとってよいことなのかを、考えさせられてしまいます。
高さが見えてしまう分、「登れても降りれない」のは、大人も同じかもしれませんね。だから子どもは「滑る」のです。

渡る

敷石の上、幅の狭い小径、盛り上がった尾根など、特別なルートを探しては辿る…そんなことが面白くなるのもこの時期です。
歩行が安定し、体のバランスが取れて、ぴょんと小さくジャンプができるようになってくると、それを使いこなしてみたくて、たまらなくなるようです。敷石を飛び移っていく時、自分なりの掛け声をつぶやいたり、「いち、に、さん…」と何と、8まで数えている子もいて驚きました。言葉は、こうした身体感覚と共に刻まれていくことを実感します。

子どもは、今、伸びようとしている能力を、盛んに使おうとすると言われています。なので、個々の発達に応じるためには、子ども自身で選ぶことができて、それに存分に浸れる遊び環境が大事になるのです。
では、そのために必要な大人の能力とは何でしょう。それは、急かさず、先回りせず、待ってあげる力なのかもしれません。まだまだおぼつかない足取りに、少しヒヤヒヤする思いと…戦いながら。

(平成30年11月号 園だより「ひぐらし」より)

●ごと▲する■

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かぜグループ(3〜5歳児)だけで実施する初めての運動会。(0〜2歳児のご家庭は、ぜひ応援に来てください!)

昨年までも、演目ごとに、子どもたちの選択やアイデアで構成するようなことはあったのですが、このせっかくのリニューアルを機会に、新たな挑戦として、今回は、年長児を中心に、運動会の企画・構成の段階から全面的に参画してもらえないだろうかと考えてみました。

子どもと相談しながら、日々の活動を展開したり、一緒に環境を作ったりすることは私たちの日常です。ですが、保護者も参観する行事全体を、子どもたちに相談する経験は初めてなので、期待や不安、手応えや戸惑いが交錯する、私たち保育者にとっても、いつも以上に新鮮で刺激的なプロセスを歩んできました。

担任以外の保育者も関わりながら、演目の企画・構成も含めた様々なプロセスの記録…これ全体が「運動会そのもの」なのですが…1階ホールに掲示、ファイリングされていますので、ぜひご覧になってください。

また、その裏側で共に歩んだ保育者たちの思いを届けたくて、関係者たちに緊急取材を試みましたので、お読み下さい。

「夢中になれる毎日」を土台に運動会を考えた時、子どもたちの「参画」は重要だと感じました。まずは、運動会に対する保育者の率直な思いも含め、子どもたちに真正面から相談を投げかけてみたところ、過去の運動会を思い返しながら、「みんなを集める方法」「親子(準備)体操の内容」「親子競技の内容」「一般(かぜグループ以外)競技の内容」が検討事項として上がり、それを4グループに分かれて具体化していくことになったのです。また、何を披露しようかとの問いかけに、17種の遊びが上がったため、それらをひと月ほどみんなで遊び込んで、それぞれが出たい種目を選んでいくことになりました。
どのように参画してもらうのか、その方法にはまだまだ検討の余地はあるものの、子どもと保育者がある種対等に物事を決めていく面白さと、真正面から問えば、子どもたちは想像以上にしっかりと答えてくれる…そんな手応えを感じる瞬間がありました。
(保育士 A 男性)

「みんなを集める」というのは、子どもたちの中でどんなイメージなのだろう…それを探るための投げかけを進めるうちに、ポスター、招待状、プログラムなどにつながり、グループの方向性が見えてきて…保育者が誘導してしまうことも簡単な状況であるだけに、少しホッとしたのが正直な気持ちでした。
プログラムの製作では、グループメンバーでイメージが共有できた途端、活動がスムーズに進み始め、全員で見通しを持つことが自発性の前提となることを実感しました。他のメンバー以上に、プログラム作りに夢中になる一人の子の存在が、この活動を引っ張っていってくれたような気がします。個々に関心の度合いが違うことが様々なリーダーを産み、多様な活動が広がるのだなと思いました。
子どもたちの参画がどこへ向かうのかが不安だったのですが、こういったダイナミックなプロセスを一緒に楽しもうと気持ちを切り替えてから、活動の見え方が変わっていきました。
(保育士 B 女性)

メンバーそれぞれの「親子(準備)体操」のイメージを自由に語り合う中で、過去の経験が想像以上に子どもたちの中に残っていることや、話題がそれることなく意見交換を続けている姿に驚きました。さすがに何か手がかりが必要だろうと、例年参考にしてきた親子体操の冊子を渡し、そこからみんなで体操の種類を選んでいくことにしたのですが、そうした提示もせず、もっと発想を広げてみてもよかったかな、と後から反省しました。
選んだ体操がうまくできるのかを、実際にやってみようと声が上がったり、選んだ体操の実施順を決める際にも、提案理由を説明しながらやり取りを進める子どもたちの姿を、頼もしく感じました。
保育者は極力口を挟まないことを心がけたのですが、そんな心配はよそに、作り上げることを楽しんでいる子どもたちの姿が印象的でした。
(保育士 C 女性) 

想像を超えた発想力に驚いたのですが、運動会特有の制約で、なかなか種目内容が決定しない状況にもどかしさを感じました。途中、年下の子たちのことも考えて欲しいことを伝えると、「これで決定だね。」と言っていた子が、ハッとした顔をして、思案し直す姿はさすが年長児だなと思いました。
意見が対立する場面もあったのですが、みんなが楽しめることが大事なのだと懸命に説得を続ける子の姿を見て、介入せず見守る覚悟を決めました。互いの意見を認めながら、なんとか着地点を見出そうとする子どもたちの姿に、信じて任せていけばいいことを実感しました。
(保育士 D 女性)

アイデアが次々と広がり話が盛り上がる一方で、どこかへ収束するのかといった不安がよぎりました。話が煮詰まり「次回までに考えておこう」と切り上げても、次のミーティングには、紙にアイデアを書いて持ち寄ってくれる子どもたちの姿が、私の力にもなりました。
「ハイハイ」を使った種目に落ち着きそうになった頃、早く手足を動かす作業に移らせてあげたいと思い、子どもたちの発想に、少し強引に保育者の考えを結びつけたかなと後から反省。子どもたちの溢れる思いに押され、その舵取りの難しさを感じる場面もありました。
(保育士 E 女性)

IMG 88922今年の4月、国の教育施策の改訂によって、保育園や幼稚園などの幼児教育と学校教育が、ある言葉で一本に繋がりました。それは、「主体的・対話的で深い学び」という、ちょっと小難しい言い回しの文言でした。

一方的な知識や技術の受け手としてではなく、自分たちで関心を持って、他者と語り合いながら、実感を通して学んでいこう…ということ…これでもまだ難しいですね。

例えば、AI時代に入ると、今の職業の半分がなくなると言われていることを考えると、仕事は探すのではなく、作る時代に入っていくのかもしれません。温暖化はどうするのでしょう、未だ止まぬ戦争はどうするのでしょう、経済的な格差はどうするのでしょう…こうした諸問題を背景に、今の教育観は形作られているようです。正解を知ることではなく、新たな正解を作り出す力が求めらている…そんなビジョンを感じます。

物事に対して、主体的であるというのは、そこに積極的に関わり、自分の思いがそこに影響を与えていくということ…つまり、それが参画するということなのですが、参画した経験がなければその術もわかりません。毎日の生活の中に参画する習慣がなければ、さらに言えば、思いを問われ、声を聞き取られ、それが位置づいていく経験の積み重ねがなければ、物事を主体的に考えていくようになることは、難しいことだと思うのです。

今回の試みも、まだほんの小さな一歩です。私たちの聞き取り方も荒削りで、まだまだ未熟です。それは、保育界で、教育界で、社会全体で、積極的に子どもたちに参画を促すことをしてこなかったから、とも言えるような気がします。

みんなの参画が溢れる場所には、「自治」が生まれます。子どもたちによる保育園の自治が、どこまで可能なのか…私たちは、それを探しに出かけてみたい思っています。

丸(●)ごと参画(▲)する資格(■)…それが、子どもにもあるはずなのです。

(平成30年10月号 園だより「ひぐらし」より)

百花繚乱

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はなぐみ(2歳児)の部屋へ入ると、そこにはせっせとそれぞれの遊びに勤しむ、朝の子どもたちの世界がありました。

IMG 8664百聞は一見にしかず…私がクラスを訪れた…たった2時間少しの間に、屋内外に、こんなにも咲き乱れたたくさんの「遊び」の価値は、私の拙い言葉などでは伝わらない…そこで、その変化とバリエーションを、写真で追ってみましたので、ちょっと我が子を探すのを止め、画面の子どもの心情に思いを馳せてみてくださいね。

保育室にバランスよく散らばる担任たち。そこを拠り所に、気の向くまま、子どもたちの遊びが展開されていきます。それぞれに、ある程度の大人からの刺激や、アドバイスを得ながら、遊びを継続させ深めていく…この姿が2歳児なのだなと、部屋全体に漂う心地よさを感じながら眺めていました。

IMG 8711それでも、集団生活となると、いつもいつも全員に応じ切れないジレンマもあるのですが、監視や介入もなく、うまく放っておかれることもまた、子ども同士の

関わりやよき葛藤を産むためにも、大事なことのように思います。来年度のかぜグループでの生活に向け、どこまで関わり、どこから放って置かれるのがよいのか、その塩梅が難しいところなのです。  何かが「できる」前に、何かを「考える」力を育てたい…そのためには、見通しが持ちやすく、わかりやすい毎日も大事だけれど、困らせない程度に迷わせる…2歳児なりのそんな場面も大事になるのかな、と考えたりもしました。

そして、様々な見立て遊びやごっこ遊びに夢中になり、「つもり」の世界を精力的に生きていくのもこの時期で、保IMG 8758育室にもそれを支えるための、様々な仕掛けが目にとまりました。「つもり」の世界では、興味深いことに、どんな子もその役柄を模範的に演じようとします。実生活ではまだ実践できなくても、周囲からは、どんな振る舞いが期待されているのかは、もうわかり始めているということ。「つもり」の世界で、客観的なもう一人の自分を育てながら、社会で生きていくための練習を始めているのです。

それをさらにバックアップしているのが、この時期の爆発的な言葉の発達。ここまで言葉のやりとりができるようになってきたら、そりゃごっこ遊びも楽しいよなぁ…この日もそれを実感したのでした。

IMG 8759私たちの保育内容に終着点はないわけですが、保育者の手練手管の前に、まずは子どもたちのこの自発的で、挑戦的で、多様な経験があれば、その育ちを後押ししてくれているような気もするのです。

2歳児が、2歳児らしく生きることの価値…それを考えさせてもらえた時間でした。

 

【百花繚乱】ひゃっかりょうらん
いろいろの花が咲き乱れること。転じて、秀でた人物が多く出て、すぐれた立派な業績が一時期にたくさん現れること。

(平成30年9月号 園だより「ひぐらし」より)

夏の仲間と暮らして

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この猛暑も、ちょうどお盆を越えた週末は、中休み。そこに流れ込んで来た秋の空気に乗って、園庭にもトンボが飛んでくるようになりました。毎年、このトンボたちの群舞が、誠美の夏の終わりと、秋の訪れを運んできてくれるのです。

しか〜し、そんな感慨をよそに、視線の先には、網を片手にいつもの倍の速さで駆け回る一群が。セミ捕りには少し飽きてきたこの頃、新たなターゲットの登場に、にわかに色めき立つ子どもたち。

ひと所にじっとすることの少ないトンボの捕獲は、セミよりも数段難しいと思うのですが、それでも、ひとりの子が「ほら!」と私の目の前に差し出された手には、指の間で羽が大きくひしゃげた、少し苦しそうなトンボ。

よくぞと関心しながらも、あの羽で、再び飛び立てるものなのか…いや、そもそも放してはもらえたのか…あのトンボのその後の運命が、少し気になります。

園の敷地には、私たちの想像以上に、様々な生物が暮らしていて、そういった生物との出会いや関わりが、子どもたちの毎日を本当に豊かにしてくれます。

畑付近には、ここ数年大きなガマガエルが住みついているのをご存知ですか?毎年初夏の夕暮れ、それも園を閉める頃になると、草むらから飛び出してきて、戸締りをする職員たちを驚かせています。それ以外の時期は、一年の大半をどこかに隠れて過ごしているのですね。

ベビーカー置き場のある倉庫付近は、トカゲたちの住処になっているようで、臆病な彼らは、ちょっと人通りの少ないあの場所が都合がいいようです。

この夏は、以前ご紹介した芝のポット苗を、駐車場で育てていたのですが、実はその芝生の茂みに、そのトカゲたち数匹が住みついていたのです。いつも水遣りをするたびに、驚いて飛び出して来る…可愛い奴らでした。(子どもたちに内緒にしておいたのは…武士の情けです。)

特に夏の間は、不運にも捕獲された様々な生き物たちと、私たちは一緒に暮らすことになるのですが、それにしても、子どもたちの「捕獲したい」、「飼育したい」という思いは、一体どこから湧き上がって来るものなのでしょうか。DNAに刻まれている本能なのでしょうか。

「自然環境や生命を大切にする」という点では、まずそれらと出会い、関わっていく必要があるので、捕獲や飼育は大いに結構なのですが、飼育ケースであるが故に、子孫を残す事なく短命に終わる姿を目の当たりにすると、これをどう考えるべきなのかと、迷いも生じます。

ずっと幼い子どもになると、アリの行列を踏み潰してみたりという、少々残酷にも思えるところから、生命との関わりが始まるという側面もありますよね。

他の生命の犠牲に生かされる…私たち人間も、その連鎖の輪の一員なのですが、こうした子どもならではの、ささやかな殺生くらいは許容されているのかもしれませんね。将来、この連鎖の輪のよき担い手になるための準備として、少し乱暴で、大人がハラハラするような生命との関わりも、実は必要なのかもしれません。

以前ご紹介した研究保育で、4・5歳児クラスの保育を観察した時のこと。ある虫取りの場面が、午後のカンファレンスで話題に上がりました。

「この年齢になって、なんの躊躇もなく、虫を潰している姿があるとしたら、それを子どもらしいと言って、手放しで肯定はできないのではないか。」

との発言…もちろんその通りなのですが…私は瞬時に、以前に聞いた子どもの声を思い出していました。

「先生、あそこに蜂がいるんだ。シュー(殺虫剤)で、やっつけて!」

園内で巣作りを始めていたならまだしも、たまたま通りかかった蜂に対しても「駆除」を求める様子は、私たち保育者を含め大人たちが、安易な殺生を繰り返す姿を見ているからなのではないか…と少なからずショックを憶えたのでした。

私が、園庭の雑草を抜きながら、いつも考える事は、芝と雑草の違いは何なのか…ということ。雑草という名の草がないのと同じように、害虫という名の虫もいない…徘徊する蜂は、距離をおいて見守れば、向こうから攻撃することはない…こちらがうまい対応をとってあげれば、それは害虫でなくなる…では、うまい対応って何?問われるならば、私は、「ほどほどの共存」と答えたい。
周りの豊かな自然と生命に感謝をするのなら、室内を這うアリやクモやゴキブリにだって、少しくらい軒を貸してあげてもって…思うのです。

人間と自然や生命との関わりって、綺麗事だけでは済まない、難しさがあります。こうしたジレンマに悩み続ける事が、連鎖のピラミッドの頂点に立つ者の責務なのかもしれませんね。そして、この正解のない課題に向き合い、粘り強く考え続ける力をつけることが、これからの子どもたちの学ぶ意味だと思うのです。

例年通りなら、そろそろ、夕闇降りる園庭を、コウモリが舞い始める頃なのですが…ご存知でしたか?…これも、食事にはもってこいの場所だからかと。

(平成30年8月号園だより「ひぐらし」より)

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連日の最高気温の記録更新。それを知ってか知らずか、おやつを食べ終わると、園庭に駆け出していく子どもたち。その後ろ姿と窓越しに広がる真っ青な空を交互に眺めながら…今日は、部屋で過ごすべきなのか…まさかこんなことを案じる時代が来ようとは。昨今の夏はジレンマの季節です。

そして今、誰もが気になっているのが毎日の最高気温。このタイミングに乗じて、玄関脇にちょっと大きめの温度計をぶら下げてみました。

今日は何度かなと覗き込む大人に…きっと子どもはこう問いかけるはず。

「これ何?」
(おおっと…温度ってわかるかなぁ。)
「温度計。赤い線が高いほど暑いの。」
「赤い線?」
「こっちからだと見えるよ。」
「ほんとだ。横の10とかは?」
(そりゃ気づくよねぇ…ええっと…)
「赤い線のここ、30超えてるでしょ…それで、ひとつ…ふたつの線を超えているから、今は32度、だから暑いんだね。」
「どうして赤い線、動くの?」
(ええ!どうしてって…)

とまあ、ここまで問われるかはわかりませんが、年齢やそれぞれの理解、興味に応じて、様々なレベルの質問が飛んでくるはずなので、それを何とか打ち返してみてくださいね。

そういった時に、「この説明は、まだ少し難し過ぎるなぁ」と感じることはよくあることですが、人間とはよくできたもので、子どももあまりにも自分の理解を超えた返答は、すぐに諦めて深追いをしないものです。また、花が咲く理由や鳥が空を舞う理由にこだわらないように、あるがままを受け入れていく姿もまた子どもです。なので、理解の有無にはこだわらず、精一杯答えていれば、その取捨選択は子どもが勝手にやってくれます。一見不毛に感じるやりとりも、続けていれば、いずれ伝わる日が来るのです。

IMG 8440それよりも、大人自身がそのことに関心があること、心動いていること、面白がっていることを表現してあげることが、ずっと大事なことだと思うのです。

読み取った温度を読み上げながら、「今日も暑いねぇ。」と呟く姿を見ているうちに、温度計の持つ意味や役割を、子どもたちは少しずつ知っていくのです。やがて、呟かれている数字は、どうやら板に書かれている数字と関係があるらしいことに気づき、目盛りの読み取り方を尋ねられるかもしれません。そしていずれそれは、長さを測る定規の使い方にも生かされていくことでしょう。

大きい・小さい、長い・短い、多い・少ない、重い・軽い、暑い・寒い、硬い・柔らかい…この時期の子どもたちは、量を自分なりの感覚で、主観的に表現しています。なので、みんなで「長い」棒を集めても、その長さはまちまちなのですが、「はかる」ことができれば、それぞれがイメージする長さを、より正確に共有していくことができます(厳密性)。

また、料理の塩加減のように、量を測って投入すれば、いつも同じ味を作り出すことができます(再現性)。

IMG 8518観的で曖昧で混沌とした乳幼児の世界を脱し、客観的で厳密で秩序ある文明世界へ駆け上がっていくために…「はかる」ことは大事なパスポートひとつのような気がします。

ただ一方で、「だいたい」「たまたま」「自分なりに」が許されなくて、たまに窮屈に感じる大人社会から見ると、乳幼児らしいあの「いい加減さ」が、とても眩しく見えるのですが。

先日、専門家の指導の元、親父の会のみなさんの力を借りながら、芝生のポット苗(苗床で育てた芝生)を、園庭の夏芝が剥げている箇所に移植していきました。

移植した芝は、今夏は十分に伸び切らなくても、その根は残っていて…来夏にまた勢いづき…これを3年繰り返せば、芝生の隙間は埋まるとのこと。目先の育ちに気を取られず、目指すのは、3年先の根っこの育ち…なるほど…芝の世界もそうでしたか。

強い日差し、滝のような汗、最後のアイスキャンディー…この夏のひととき…親父たちに、ありがとうを。

(平成30年7月号園だより「ひぐらし」より)

「園暮らし」が始まる

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生えそろった芝生を掘り出して、細かくちぎって…子どもたちに手伝ってもらいながら、駐車場脇に芝生の苗床を作りました(下段の写真)。これを7月の下旬くらいまで育てて、土の露出した園庭に戻していこうという算段です。芝生の赤ちゃんを大事に見守ってください。

専門家からこういった方法を聞いて、半ば興味本位でトライしてみることにしたのですが、個人的には、多少芝生がハゲていようが、使ってなんぼの園庭なので、あまり気にしないのです。マメに雑草を抜け、芝を刈れ、肥料をやれ…彼らは口うるさいのですが、お天気との相談もあるので、意外に時間は取れないもので、結果的にそこそこになってしまうものです。

倉本聰という脚本家をご存知でしょうか。彼の書いた「北の国から」というテレビドラマの撮影を始めた頃、主人公の父親が、懸命に畑作業を取り組む場面を見て、もっとダラダラとのんびりとやるよう演技指導したそうです。既に北海道に移住していた彼は、本物の農作業のありようを実感していたからでした。

頑張り過ぎないことが、長続きの極意…と言い訳をしながら、伸び過ぎた芝刈りに勤しむのが、この季節。

さて、いつでも保育を見学してください…それが誠美流なのですが、とはいえ、何かきっかけが合った方がと、年間に「保育参観週間」を設けています。(なので、いつでも参観できるのですよ。)

そして、それをもう一歩進めて、第三者(参観者)としてではなく、保護者の方も一緒に園生活をしてみませんか?という試みを、今年度からスタートすることにしました。題して「園暮らしの日」。

他園では、「保育参加」といった「他児を見守る保育者の立場を体験してみる」というニュアンスを帯びた呼び名がつくことが多いようですが、まずはあまり構えずに、子どもたちと一緒に暮らしてみよう、一緒に生きてみよう、そこから何かを学んでみよう、考えてみよう、そんな思いを「園暮らし」に込めてみました。

ゲストとしてではなく、共にひとつ屋根の下で過ごす生活者として、いっときを過ごす仲間として、我が子以外の子どもたちと関わIMG 2957りながら、生活全般をお手伝いいただきながら、自然体で過ごしてもらえればと思っています。
3〜5歳くらいのクラスでは、「参観」の日であっても、時おり、子どもたちと楽しそうに関わっている保護者の姿を見かけます。その夢中になっている姿を見たある担任が、「子ども側の目線に立ってもらうことが、保育参加の意味か」と書いた記録を読み、なるほどと思ったことがありました。サポート役の大人の立場を体験しているようで、それを通して「子どもの立場」を学んでいる…そこが本質なのかもしれません。

(一般社会と違って?)子ども中心の、子ども本位の小さな社会だからこそ、見えるものがある、大人社会で失いがちな大切なものが見えてくる…。

新入園児には、慣れ保育という期間があります。近年、SIDS(乳幼児突然死症候群)が注目されるようになり、乳幼児施設では、数は少ないのですが、その3割が、利用開始1週間以内に発症しているというデータもあります。これは、環境変化による過度なストレスが背景にあるとも言われていて、「慣れ保育」のあり方が、ますます重要視されるようになって来ました。(当園でも、慣れ保育期間の初期に、親子で園生活を始めるというステップを入れています。)

保護者がいない時は保育園で、保護者がいる時は家庭で…もちろん、致し方ない部分もあるとはいえ、こういったわかりやすい分断(大人たちの都合?)に、実は子どもたちは少し翻弄されているようにも感じます。

親子で過ごす保育園、大人の居場所の保育園…すでに別棟の「子育て広場」では実現されていることですが…ここにも、これからの子育て環境の行方を考えるヒントが隠れているように思います。

特に、参観との違いを実感しやすいのが、0〜2歳児かもしれません。クラスそれぞれのタイミングでスタートのお知らせを出していきますので、ぜひお時間を作っていただき、いっときの園暮らしを体験してみてください。

(平成30年6月号園だより「ひぐらし」より)

園長保育

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初夏の爽やかな風が、園庭を駆け抜けていきます。歳のせいか、真夏のあの湿った空気にいつ入れ替わってしまうのだろう、と少し先を案じている自分こそ、「その日暮らし」がなっていない。季節を問わず、毎日のように園庭に飛び出していく子どもたちにまた、教えられています。

最近、4・5歳児クラスの保育をゆっくりと観察する機会がありました。当園ではこれを、研究保育と呼んでいます。活動終了後には、そのクラス担任と観察した職員、そして、外部から招いた保育の研究者にも参加していただき、この日の保育の意味を検証し、ディスカッションする時間を設けています。

その日は、小麦粉粘土にまつわる活動が繰り広げられていました。子どもたちが、過去に経験したスライムや紙粘土に、とても興味を持っていたことから、このひと月、小麦粉粘土遊びを幾度となく楽しんできたことや、その中で、感触やその可塑性(形を自由に変えることができること)を楽しみ、小麦粉と水の調合を通して、状態や色の変化に関心を持ち、計量することを通して、多い・少ないの先にある、測ることの意味に気づき始めている…といったことが、事前に担任から配られた資料に綴られていました。

今回の活動の中に、小麦粉と水の調合を、自分たちで試行錯誤してみる、というねらいがありました。うまく配合のバランスが取れたグループは、見事に粘土遊びに突入できるのですが、水を入れ過ぎたグループは、白濁した水溶液に…。

しかし、実はここからが見ものでした。水溶状になってしまった一群は、担任に訴えるわけでも、それを嘆くわけでも、諦めて全く別の遊びに移るわけでもなく、目の前のボウルの中で揺れる液体に吸い込まれるように、あっという間に、色水遊びに没入していったのでした。そう、失敗こそがスタートだったのです。

色を足して変化を楽しむ者、水を足して量の増減を楽しむ者(メートルとかグラムとか、どこかで見聞きしたのであろう勝手な単位で、量を表現していました。)、小麦粉混じりの粘度のある水であるため、ストローでブクブクと吹いた泡が消えない様子が、また面白いようで。担任が用意していた、様々な素材や道具を持ち出して、会話で情報を交わしながら夢中になっていく子どもたち。
これは、水遊びを楽しんでいるようでいて、実は水の性質を確かめている行為でもあるのです。(これを探索的な活動と呼んだりします。)楽しさの根底には、常に発見があることがよくわかる場面ですね。(この背景には、活動中の子どもたちの様子に応じながら、活動の方向性に刻々と修正を加えていく、担任の判断がありました。)

そして、隣の子の面白そうな行為や、遠くの声を聴き合い、それを真似て取り入れ、影響し合っていくことで、活動への熱気が部屋に充満していくようでした。これが、それぞれの発見や成果を共有し、学び合っている、ひとつの姿なのだと思います。
また、それらの行為や子どもたちの言葉の中に、これまでの経験や、ここ数週間で得た小さな知識が、たくさん散りばめられていることにも気づきました。

同じ遊びに取り組んでいても、それぞれに違う経験があることにこそ、意味がある…それが集団活動の本質のような気がします。

最後に、もうひとつ印象的な場面に出会いました。それは、片付けの場面。たくさんの道具や粉と水で汚れた部屋を、むしろ遊んでいたときよりも真剣な顔つきで、洗って、掃いて、雑巾をかけて…その黙々と取り組む姿に、私は思わず「楽しいの?」と声を掛けたほど。

片付けによってさっぱりとする感覚、部屋の状態が変化していくさま、そして道具を使いこなしながら、それを自分の力で実現できるという有能感…自分を使ってみたい、という思いが伝わってきました。これが、この4〜5歳という年齢の育ちなのですね。

私たち大人は、これを遊びとは分けて捉えがちですが…自分の能力を使ってみる、確かめてみる、そして役立ててみる…という点で、子どもにとっては、遊びと何の違いもないのかもしれません。

遊びと仕事…私たちが、これを分けた日々を送るようになってしまったのは、いつの頃からだったでしょうか。

すると、せわしなく立ち働く子どもたちの向こう側で、壁際の椅子にちょこんと腰をおろし、みんなの様子をぼうっと眺めている、二人の子が目にとまりました。聞けば「休憩中」とのこと。周囲はそれを咎めることもなく、それならそれで仕方がないと、その行動を受け入れているように見えました。

等分であることが公平なことなのだと、私たちは、いつの頃から考えるようになってしまったのでしょうか。

この日もまた、子どもたちに教えられ、大人たちと学び合い…私もみんなに育てられた…いい一日でした。

(平成30年5月号 園だより「ひぐらし」より)

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