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先日の運動会、今年もあいにくの雨模様で、宮上小の体育館をお借りして実施した会でありました。

園長の日頃の行いが悪いのか、ここ10年ほどを振り返ると、それ以前と比べ、相当な確率で雨天に当たっているような気がします。今年の時期外れの秋雨前線、台風到来を考えても、地球規模で季節の変わり目も揺らいできているのかな…そう考えると、運動会どころか、それよりずっと不安にかられるのですが。

昨年も同じようなことを書いたように思うのですが、毎年のこの時期、園内の大人たちは、毎日、天気予報とにらめっこをしながら一喜一憂、運動会当日の雨天がほぼ確実となると、一様に肩を落とします。それでも、体育館での開催が終わるたびに、「これはこれでいいものだな。」と思うから不思議です。

もちろん青空のもと、大地を蹴って開放感を満喫する運動会が一番なのかもしれませんが、会場のみんなの気持ちが自然と中央に向く、お互いの心の動きが伝わってくる…そういう点では、体育館の方が一枚上手かなとも思います。会場のみんなの「気」のようなものが湧き上がり、それが四方の壁に封じ込められて…時間と共にどんどん充満し膨らんでいく…閉じられた空間には、そういった状態が起きやすいのかもしれませんね。

さて、日本の保育・教育は、伝統的にこういった「行事」を軸に組み立てられてきたという側面があるように思っています。それもどちらかというと、「集団的に表現する場」として成立しているようです。これは本来、特に乳幼児期の場合、「披露したい」「共感してもらいたい」という、子ども自身の自発的な思いが前提となるべきもので、個々の発達や個性に応じて、その程度は様々なはず。まずは自身が夢中になる段階、家族や友だちなど、身近な人に共感を求める段階、いずれ大勢に披露したくなる段階などなど。大切なことは、先を急がず、その時々のステージを十分に経験することなのですが、運動会などの行事は、ともするとこういった個別的な発達や関心を丸ごと押し流してしまう…そんな危うさも合わせ持っている気がします。

実は私たちも、そういった悩ましさや難しさと向き合いながら、行事の内容を少しずつ変容させて来ており、かぜグループの「得意だ走」も、そのわかりやすい工夫の一例かもしれません。ただ、これは運動会でなくてもいいのかなと考えてみたり、0〜2歳児の行事への関わり方も、子ども自身の発達段階を考えると、再考の余地はありそうですし…行事の変容はまだまだ途上です。

そして、12月にはまた、「お楽しみ会」が控えています。運動会が「運動遊び」だとしたら、こちらは「イメージ遊び」、少し強引に言えば、前者が外遊び、後者が室内遊び…でも、それぞれにダンスがあったり、けん玉があったり…いずれにせよ、子どもの自発性や個々の発達に考えを及ぼすほど、それを区別することの必要性もどんどん怪しくなります。

子どもたち一人一人異なるはずの充実感や満足感、見せたいという共感意欲。そうしたものと、画一的な集団性に陥りやすい行事というものを、少しでも高い次元でつなげていきたい…そう願いながら、今年のお楽しみ会も、そのスタイルの変容に挑んでいこうと考えています。

一人一人の毎日こそが大事にされる、成果よりも、活動途中に遭遇した個々に異なる経験が大事にされる…それを目指す時、見せる場としての行事とは、一体どんな意味を持つのだろう…そう問い続ける中で、確かに…「これもいい」と感じた瞬間が、あの運動会にはありました。

きっとそれは、育ちつつある目の前の子どもの姿を、その背後にある園が大事にしようとしているものを、あの場のみんなで共有できた…そんな一瞬があったからなのかもしれません。
私はここに一つの、これからの行事の持つ意味と、目指すべき方向が見えるような気がします。

それは、「園の文化を確かめ合う」場、別の言い方をすると「子どもたちの表現を通して、日々の暮らしぶり(活動のプロセス)に思いを寄せる」場…。

そこを一緒に…目指してみませんか。

(平成29年10月号 園だより「ひぐらし」より)

エースもねらえ

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8月からの天候不順で、この夏の芝生も生育不順。はらっぱになりきれないまま、10月の運動会を迎えそうです。

園内では、今年度から「研究保育」というものを始めています。これは、順番に各クラスの保育活動を、職員間で見合いながら、その内容を振り返り、語り合って深めていこうという取り組みです。またそれが、私たちの独りよがりにならないよう、外部講師も招くことで、客観的な視点も取り込むようにしています。

先日も、3〜5歳児保育を観察し、協議の場(カンファレンス)を持ちました。

当日、子どもたち個々の言葉に丁寧に応じながら、活動全体を進めていく保育者の姿に、私は、十人の言葉を同時に聞きとったと言われる、あの聖徳太子のお姿を重ねながら、見入っていたのですが、その後のカンファレンスでもそのことが話題に上りました。

私たちは、相手の言葉を聞くことで、その考えや思いを知ることができるのですが、反対に、自分の行動の意味をいちいち周囲に説明するものでもないので、他人はその行動の意味を勝手に想像しているものです。

そして、相手が子どもともなると、安易にその行動の意味を決めつけるか、子どもだから意味もないのだろう、と片付ける傾向が強くなるようにも感じます。
だからこそ私たちは、その子の本当の心情は何かを、慎重に洞察していく必要があるのですが、園内のある保育者が「子どもに問いかける」という実践を語ってくれました。

それは、「わからないのなら、本人に問うてみる」という、ある意味当たり前のことなのですが、これを意識的に実践してみると、こちらの想像を超えた答えが返ってくることに気づいたそうです。さらには、わかっているつもりのことでも、あえて問うてみると、実は違う思いを抱いて遊んでいたこともあったとか。子どもの思考を掴むための、簡単だけれど、大事な方法だと気づかされる話です。

「まずは聞くこと」は大事なのですが、それにどう「返す」のかということは、これもまた重要で、さらに難しいことだなぁと、つくづく思います。

子どもの言葉に、何をどう返すべきなのか…「少し考えるから、夕方まで待ってね。」なんて言えない…一瞬で判断し、反射的に返していく行為…まさにこれは真剣勝負。的確で完璧な返しなんて、ポンポンと繰り出せるものじゃない…だから…何度だって振り返る……研究保育だってする…学び続ける…私たち大人だって。

保育者たちが書き込んだ様々な記録や書類は、立場上、私の手元を通っていきます。仕事とはいえ、それぞれが思いを込めたものならばこそ、私も何かコメントを返したくなります…保育の質が、応答の質というならば、私の仕事にだって、この返しの質が問われていることをいつも感じます。

見方を変えれば、会話とはコメントの付け合い、その応酬。かつて、テレビでも見かける某教育学者の「コメント力」という本がヒットしましたが、パッと、何をどう返すのかにも力量が問われるということなのですね。

「どうだった?」も、相当のコメント力が問われる質問です(なので、子どもに対しては慎重に使うべき問い方ですが)。

「旅行、どうだった?」「あの映画、どうだった?」さらには「昨日、どうだった?」といった乱暴なサービスに、どんなリターンを打ち返すのか。そこそこ手短に、かといって「楽しかった」では済まされない…ある種の緊迫感も漂います。自分は何に心動かされたのか…その感性自体が問われているからです。

どうだった?…自分を棚に上げ、心を鬼にして、心で泣きながら…今日も職員たちに投げ掛ける…大好きな言葉です。

(平成29年9月号 園だより「ひぐらし」より)

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梅雨に逆戻りしたような長雨。子どもたちには、少し欲求不満の夏でしょうか。

保育・教育界では、様々な研修が開催されていく季節でもあります。中でも、少し視野を広げて考えてみるような、少し掘り下げてみるような、すぐに答えが出せないような…そんな講座、講義、セミナーなども増えるような気がします。じっと思いを巡らすには、この長雨も悪くない…とまでは思わないのですが、なぜか今年は、ことさら印象的な「言葉」を私の中に残している…夏であります。

もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日しようとしていることを、私はしたいだろうか?

某多国籍企業創設者の有名なスピーチの一説ですが、この夏のある講演での引用を改めて聴きながら、「したい」という言葉を「すべきこと」に置き換えて自問した言葉でした。どうして人は、こんなシンプルな考え方で、ためらうことなく行動ができないのでしょうか。そして、
「今日しようとしていることを、子どもたちはしたい(すべき)だろうか?」とさらに自問は続くのでした。

私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ。

この夏に見た映画の中で、主人公が語っていたセリフ。こんな風に考えると、巻き起こる毎日の出来事に、誠実に向き合えるのかも…そう思いませんか?

自分は大人なんだ、という思いで行動するのが子ども。ただ、大人から与えられたものを、まだうまく使いこなせないのだけれど、それでも、それぞれの年齢の中のマックスで…大人。

著名な脚本家の言葉(一言一句、この通りではなかったかも。こうした人の話が聞けるのも、夏ならでは)。
10歳の小学生たちの学校生活を、大人だけで演じる舞台作品を作るにあたり、実際の小学校生活を見学した際に感じたこと…なのだそうですが…この感性と脚本家ならではの表現力に脱帽しました。

「大人から与えられたもの」とは、大人側の期待やそれに応えるための技術、そして大人によって作られた今の状況や社会環境などを指すのだと、私は思いました。与えられた状況に、与えられたものを自分なりに駆使しても、まだまだうまく立ち回れないけれど、それぞれの育ちの中で獲得した「経験や能力」の範囲の中で、精一杯大人であろうとしている…そんな子ども観なのだと思うのです。

これは、幼児期の子どもたちの「ごっこ遊び」にも、顕著に現れる姿です。お父さんやお母さん、運転手、お姫様、正義のヒーローなど、ごっこの中の子どもたちは、自分の憧れ、理想の姿を演じようとします。現実の世界の自分とは打って変わって、ごっこの世界では、「です・ます」を使ってルールを説き、極めて道徳的に行動しようとします。ちょっと背伸びをし、精一杯、社会的な期待に応えようとする姿が、そこにはあるように思います。

それにしても、子どもと大人の境界は、一体どこにあるのでしょうか。その時々の自分の力の範囲の中で、精一杯大人であろうとする姿は、幾つになっても終わりがないことのような気がします。
年齢を重ねることが、たまたま「親」になったことが、イコール「大人」であることでもなく…「よき大人とは?」と問い直しながら、少し、背伸びを続けること…子どもたちに、見習わなければいけませんね。

モノが欲しいのではない。『遊び』が欲しいだけ。

これは、あるおもちゃ研究家の言葉でした。他の子が遊んでいるおもちゃを、せっかく奪い取ったのに、早々にそれを放って別の遊びへ…1・2歳くらいの子どもたちによく見られる光景です。
つまり、楽しそうな様子に魅かれて、その「楽しさ」を奪い、手に入れたつもりが、おもちゃ自体に「楽しさ」がある訳ではなかった…ということなのです。そこで、「楽しさとは何か」の体験をサポートしていく大人の存在が重要になってくる、ということなのですね。

さてみなさん、本当に欲しいものは…今その手の中に…あるものですか。

(平成29年8月号 園だより「ひぐらし」より)

遅まきのひまわり

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気づかぬ間に梅雨は明けていたようで、本格的な夏空の下、水遊び中心の毎日が始まっています。

今年の6、7月…園長として、例年にはないくらいのせわしなさの中で、頭をパンパンにしながら過ごしていたからでしょうか、ある夜、布団の中で、「あっ!」と声をあげました。それは、とある園長から、「種を増やして収穫してね。」と、ひまわりの種をもらっていたことを思い出したから。(これは、「福島とみんなをつなぐ、ひまわりプロジェクト」という活動。http://himawariproject.com/whats.html)

怠け者の園長は、それを誰かに撒いてもらおうと、何の説明もせず、S木主任のデスクにとりあえず置きっ放しにしていたのです…それも2週間くらい前に。そのひまわりの種は、不思議な事に、真っ青に染色されているため、「なにこれ、気持ち悪い…。」と捨てられてやしないかと、なおさら心配になったのでした。

「ああ、これですね。」

翌朝一番に声を掛けると、ちゃあんと保管をしてくれていた、マジメな彼女。「何だろうと思っていたんですよ。」と言いながら、ひと仕事を請け負ってくれました。
とりあえず、安堵した無責任な園長は、また忙しくも虚しい雑務へと、舞い戻っていったのでした。

Blog IMG 0211そして、他園から施設見学者を迎えたある日。階段の掲示板を眺めながら一向を案内をしている時…一つの活動写真に、ふと目が止まりました。
なっなんと、それは、あの青いひまわりの種!しかも、あの昔から親しまれている絵本「そらいろのたね」を絡めながら、子どもたち共に「ひまわりプロジェクト」を進める様子が語られている…まさかこんな展開になっていたとは…

その後の種の行く末のことなど、またしてもすっかり忘れていた不届きな園長は、多少の後ろめたさを感じながら、少し動揺しておりました。興味深げに掲示物に見入る見学者に、それを悟られないよう「青いひまわりの種をもらいましてねぇ…」と平静を装いながら、先へと歩みを進めました。

たまたま、私に託されたひまわりの種。忙しさにかまけて、すっかり人任せにしていた事もどうかと思うのですが、そのおかげで?、人知れず、園内の片隅に撒かれるだけの運命だったひまわりが、私の想像を超えた道を歩んでいたのでありました。

保育活動とは、きっとこうした偶然が重なり合って生まれているものだと、改めて思います。様々な人や物が行き交い、色々な出来事が交錯する園内で、何が拾われて、何が見逃されていIMG 2035るのか…神のみぞ知ることなのかも知れませんが、たまたま拾われた偶然を、子どもたちの新たな経験へと結びつけていく保育者たち。そこに、何らかの意味と期待を込め、子どもたちの前に再提示された時、ただの偶然と思われた出来事が、経験すべき「必然」へと生まれ変わる瞬間が訪れるような気がします。

子ども、そして人が育つために、絶対に必要な経験とは何であるのか…森羅万象に満ち溢れるこの世界から、それを選び出し、優先順位を付けることは難しいことです。それよりも、たまたま出食わした出来事を、価値ある経験へと位置づけてくれる人、そういう人と巡り会うことの方が、ずっと重要なことだと思うのです。

ただ、その巡り会いもまた、偶然の産物。となれば、自分は、子どもたちにとって、巡り会う価値のある大人になり得ているのか…自問自答は続いていきます。

ただ、今言えることは、種との出会い一つに、これだけ心乱されているようでは…まだまだ…ということでしょうか。

(平成29年7月号 園だより「ひぐらし」より)

幽体離脱という育ち

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梅雨の時期を迎えました。
梅雨の語源は諸説あるようですが、これを「つゆ」との読み変えた先人の感性に脱帽です。

そして日本では、田植えを告げる季節でしょうか。バケツとはいえ、初めて、米作りに挑戦するかぜグループの子どもたちも、小さな小さな苗の芽吹きに今、心踊らせている…そんな話を担任から聞きました。

私にとって、担任たちの思いに耳を傾ける機会は、会話の他、文字を通した保育の記録があります。そこで一緒に考えたり、私自身、学ぶことがとても多いような気がしています。

そうした記録の中の、とある一節をご紹介します。

まだまだ、遊具や道具の使い方・片付け方が未熟な3歳児。それを見咎めた5歳児たちが、

5歳児たち「いけないんだぁ。」
保育者「優しく教えてあげて。」
5歳児たち「それは先生に聞いてから出すんだよ。」「使い方が違うよ。」

などと言葉を変えていく姿、またそれを受け入れていく3歳児の姿に、子ども同士の関わり合いの重要性を感じた、という内容でした。

「優しく言って」ではなく、「教えて」という言葉を選んだ保育者の意図に、見事に応じた姿は、さすが5歳児ですね。
これがもう少し幼い子ならば、ただ柔らかい語調に変えるとか、「先生が言ってたでしょ!」となりかねない所ですが、相手が「何をわかっていないのか」を考える力があるからこそ、「方法を伝える」言葉が出てきたのではないでしょうか。
これは「相手の立場に立って」考える力とも言えます。「他者視点の獲得」とも言われるこういった育ちは、就学前の乳幼児期に飛躍的に身につけていく力で、私たち大人も「成長したなぁ」と実感するポイントの一つですよね。

もう少し詳しく説明すると、3歳くらいまでは、「嬉しい」「悲しい」といった他者の「単純な」感情を、そして4歳以降からは、感情の「状態」や「背景」、他者の「立場」や「考え」なども、徐々に理解していくと言われています。
先ほどの年長さんたちは、まさに3歳児の立場(まだ新しい環境に不慣れなこと、理解力がまだ乏しいことなど)を想定しながら、言葉を選んでいるように見えます。まさに「教える」とは、こういうことですよね。

こうした力は、日々のぶつかり合いや共感など様々な関わり合いを通して、表情や声、体の動きなどを手がかりに推測し、少しずつ獲得していくのですが、実は、運動神経や手先の器用さ、音感などと同じように、これにも得手不得手があることを忘れないようにしたいものです。年齢を挙げたのは一つの目安。もちろん、サポートが必要な場合もありますが、結果として、それぞれのペースで育っていけばいいのだと、私は思っています。

それにしても、自我を離れ、他者の視点や思いの中に滑り込んでいくこの劇的な飛躍を、生まれてわずか数年の間に遂げていく凄さに、単純な私は、バカみたいに感動してしまうのです。

一方、他者の思いに気づくのは、同時に、自分という存在(自我)をしっかりと形作っていくからです。0〜2歳くらいの子どもたちは、まさにこれを頑張っている真っ最中。ここを育てるには、「自分の思いは他者に共感された。自分は認めてもらえた。」という経験が軸になります。そのためには、ご家庭も含めた私たち大人の役割が大きく影響しますね。

先の5歳児のエピソードの土台は、実はこの0〜2歳期にあることもぜひ、心に止めておいて欲しいと思っています。

さて、3〜5歳児の記録をもう一つ。
かぜグループでも、意図的に「朝の会」を設定しない日があります。そうしたある日、製作コーナーで物作りに取り組むひとりが、

「今日はずっとここにいていいの?こういう日、大好き!」

まさに、この思いを受け止めるための設定であっただけに、この保育者は、ある種の手応えと共にこの言葉を拾ってくれました。

と同時に、「朝の会」を通し、他者の言葉や思いを聞き合うことから、別の世界とも出会わせていきたい…、
「こういう日も大好き!」
と言わせたい…そんな闘志?も密かに燃やしているのでは…そんな勝手な想像を膨らませながら、読み入っていました。

(平成29年6月号 園だより「ひぐらし」より)

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きらきらと光る新緑、そして木漏れ日が映し出す影との力強いコントラストは、さあ進めと、私たちに生きるエネルギーを与えてくれているようです。

先日の懇談会後の午後、親父の会の面々によって、園内の畑の畝づくりが行われました。

まずは雑草取りから始まるのですが、なんとその中に、冬に収穫しそびれ、見事、越冬を果たした立派なほうれん草の一群を発見。それはそっと取り分けておいて、いよいよ硬くなった土の掘り起こし、そして耕作へと入ります。

一昨年の増築による畑の移動で、新たな「開墾」を余儀なくされ、親父たちを苦しめた昨年度。今年は多少は耕しやすくはなっていたのですが、それでもひと冬を放っておいた土を畑に戻すのは、かなりの労力です。それに、まだまだ除ききれていない石や増築時のガラが残っていて、それを除去しながらの作業は、まだまだ、親父たちの手をわずらわせるものでした。

この辺りの土は粘土質が多いのか、鋤(すき)がコツンと石に当たったのかと掘り起こしてみると、硬くしまった土の塊なんていうことが頻繁にあります。

農作物に詳しい親父さんの一人によると、トウモロコシを植えれば、根っこがそれを砕いてくれるとのこと。なるほど、だから開墾された、かの北の大地では、たくさんのトウモロコシが育てられているのかも。芋虫(幼虫)の多い土では根が食われる…なので虫の嫌う石灰を多めに入れ、石の多い土では、それを避けて育つ根菜は形が歪む、土を細かくすればするほど、水持ちが良い…。

皆で汗を流しながら、こういったことを教えてもらっていると、足下の土の中で根や虫や水や肥料が、戦い蠢きあっている映像がだんだんと頭に浮かんで来るもので、そういった目に見えない地中を語れるこの親父さんはすごい…と聞き入ってしまいました。

IMG 2196そして「土」と戯れた次は…「水」でしょう…ということで、翌日の日曜日は、海へ魚釣りに出かけてみました。

春の風を切って漕ぎ出た大海原、そのど真ん中で、針に生き餌に通すことに孤軍奮闘する海の男が一人。その姿に技量を見とった船長が、手取り足取り、面倒を見てくれました。

海釣りをしたことのある方はご存知だと思いますが、海の釣りでは、針の少し手前に、小エビや魚のミンチを入れた小さなカゴを付けて、それで魚を誘う釣り方があります。なので、ぐいっと一瞬強く竿を強く揺らし、そのカゴの中の餌を海中で散らすのですが、「ダメダメ、それじゃ散らないよ」と船長。どうして見えない海中の様子がわかるのか…不思議に思いながら手ほどきを受けるのです。

さらに、「海底から2メートルくらいにいるから、少し巻き上げて…」と確信に満ちたな言葉に…ギョギョッ!どうしてそれがわかるのですか!…さすがにこれは、魚群探知機で見ているのですね。それでも、船長の話を聞くうちに、カゴから散る撒き餌に、夢中になって集まる魚の群れを…感じて来るのでした。

見えないものを見る人…この船長も、私にすればすごい人です。きっとこれが、専門家と言われる条件なのかもしれませんが、その言葉に耳を傾けているうちに、私にも見える気がしてきたのは、その時、私も懸命に「見よう」としていたからなのかもしれませんね。

太公望曰く、魚は「釣れる」のではなく、己の腕で「釣る」ものなり。もの言わぬ子どもの心情もまた、「見えない」のではなく「見よう」としない己を、まず疑ってみるものなのかもしれません。

先の畑作業、それが終盤に差し掛かった頃、みるみる空が暗くなり、突然のにわか雨に襲われました。想定外の雨…今日のメンバーには、「空」を見ることのできる親父はいなかったようで…こんな時のスマホの雨レーダーでは、雨雲は小一時間で通り過ぎる模様。

ならばと、テラスの子どもキッチンで、冬越しのほうれん草を炒めながら待つことに…これもまた、よきかな。

親父たちに深謝。

(平成29年5月号 園だより「ひぐらし」より)

 

 

乗り越えて行け

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桜の満開よりひと足先に、園庭の花々が、新年度を彩ってくれました。

そして…ようこそ!誠美保育園へ、新しいクラスへ。お待ちしておりました。

入園、進級それぞれに期待と不安が入り混じるこの時期。入園されるご家庭にとっては、一層その思いが強いのではないでしょうか。
子どもは環境の変化に敏感ですが、その分、順応性もずっと高いものです。これを「柔軟な心」と言ってしまえば、それまでなのですが、きっとそれは、子どもならではの、「素直」に感情を表現できる力のおかげだと思っています。

思いっきり泣いて、笑って、怒って、ちょっとしたことで不機嫌になったかと思ったら、突然機嫌を直したり。そういうことが、十分に許される環境があるからこそなのかもしれません。これも大事な「自己表現」。周囲の大人たちがそれを、「そうなんだね。」と、丁寧に受け止めていくことで、少しずつ乗り越えていくのだろうなと思うのです。

その一方で、そんな荒っぽい感情表現ができない?許されない?大人の方が、実は、ずっと大変なのかもしれません。

大笑いは大いに結構なのですが、大の大人が突然、激しく泣いたり、怒ったり…確かに、周囲も戸惑うのかもしれませんが、伊達に年を重ねてきたわけではない大人たちには、「言葉」という、うまい道具があります。不安な気持ちは、素直に「不安なんだ」と、言葉でその心細さを伝えてよいのだと思います。

しかし、これまた伊達に年を重ねてしまった私たちは、この「素直」が意外に苦手です。気遣いという奥ゆかしさ、そして、人に認められたいという焦りや、時には大切なはずのプライドさえも…素直になることを邪魔するのです。

そして、「不安」な気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをするうちに、それはやがて、周囲への不信感や非難へと形を変え、表現されてしまうものなのです。

不安を乗り越えるために、大人だって、素直に「自己表現」していいのです。ただ、大人の場合、先のような様々な雑念を乗り越えて、本当の自分の不安感や辛さに辿り着いて向き合って、ようやくそれを言葉にできる…そうした本物の強さと勇気に敬意を払いながら、私たちなりにそれを精一杯受け止め、未熟ながら一緒に考えていきたい…そう思っています。

受け止める力、受け止めてもらう力、親になっていくことは…名実共に大人になっていくことは…本当に大変で…いつも途上で…気づきの連続で…だからちょっと…面白い。

子どもに、保護者に、地域に、そして私たち職員に…それぞれにとって心地よい居場所となるように
それが「ここ」の理念です。

自分の存在が位置付いている、認められていると感じた時、人はそこを居場所と感じます。反対に、他者を認めていく、位置付けていくのもまた、その場にいる人たちです。それを皆さんと本気で作り上げようとしているのが「ここ」です。

自分の居場所の数だけ「幸せ」の数も増えていく…そんなことを…一緒に信じていきませんか。

(平成29年4月号 園だより「ひぐらし」より)

新年度、気持ちも新たに園だよりの誌名を「誠美だより」から「ひぐらし」と改名をした。

漢字にすると「蜩」…ではなく、「日暮らし」。
「暮らし」という言葉は、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、それらに醸成された文化をも含み込んでいるように私には感じられる。

  今に夢中な「その日暮らし」
  いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
  今日こそはと挑む「この日暮らし」

 子どもにも大人にも…それぞれの暮らし…営みが積み重なっていく場を目指して、そして蜩(ヒグラシ)が鳴き出す夕刻まで、夢中になって遊んだ…あの子ども時代への仄かなノスタルジーと、そんな思いなど越えて行けという…今を生きる子どもたちへのエールを込めて。

東京 ブラ ストーリー

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梅の花もほころび、別れと出会いの春へと、いよいよ季節は動いていきます。

この時期に、順次ご家庭にお配りする「歩の記」。その発行の前段階で、毎回私は、112人の子どもたち全員の「生きる姿」のワンカットを、走馬灯のごとく垣間見ていけるという、栄誉に浴するわけです。

担任たちの、子ども一人ひとりに対する「深さ」には遠く及ばないのかもしれませんが、全園児の「生き様」のシャワーを浴びながら、何とも言えない幸福感に浸る時間を持てているのは、おそらく私だけなのでは…というのが密かな自慢です。(職員一同に感謝)

ちょうど今、読み進めているクラスが、にじぐみ(1歳児クラス)の面々。
2歳を迎えたこの時期の彼らは、手先の運動を含めた身体能力の育ちも著しく、それを使いたくてうずうずしています。しかし、物の道理はまだまだこれから。底の空いた器に懸命に砂を貯めようと葛藤したり、誰かと一緒に作業を進めたり、物の貸し借りや取り合いなど、他者の存在をはっきりと意識して遊び始めるのもこの時期です。

さらにそこへ、「こうしたい!」という激しい自己主張(自我)を載せてくるものだからで、一見穏やかに流れるそれぞれのストーリーにおいても、内面は、大きく揺れ動いている様子が、本当に面白くて…失礼、当人たちには大問題です。

なので私は、こういった様子を「優しい」とか「楽しそう」とか「怒っている」とか「悲しそう」だとか、そういった言葉でまとめて欲しくないと思っています。その子の本当の心情とは何なのかを掘り下げて見取ってほしい、そしてそれを厳密に表現する言葉を探してみてほしい…そう思っています。

書くこと、表現することは「考えること」「思いを馳せる」ことです。確かに少し手間暇が取られることなのですが、その時間こそが「考える」ため時間なのだと思うのです。

生まれてまだ数年の子どもたちの心情、感情はある意味、よくも悪くも粗野でシンプル…それを耳障りの良い短い言葉でまとめようとすると、その真の思いをつかみ損ねる事を恐れます。反面、粗野でシンプルであるが故、その純粋さに大人たちは心打たれます。(それにして、心で怒りながら笑うことのできる私たち大人って、本当に高度で…厄介な存在ですね。)

そして、にじぐみの記録を読んで見えたもう一つの姿は、「立ち止まる姿」、そして「移動する姿」です。

目的地へ向かっていたはずが、途中の他児の遊びに気を取られたり、夢中になっていた遊びを、ふとしたきっかけで離れてしまったり、やっと手に入れた玩具を、そこそこで放置してしまったり。(これは3歳くらいでもよく見られる姿です。)

自我が発達する姿を捉えて、2歳児を、「イヤイヤ期」と称することがありますが、このネガティブな表現を止めて、「ブラブラ期」と言い換えては?という話を聞いたことがあります。

「集中している」という表現は、なぜか大人たちが安心するキーワードの一つですが、その一方で「どこかに面白いものないか」「おっ、これは何だ」…そんな思いで、園内をブラブラする姿…これをポジティブに捉えることのできる発達観を、忘れないようにしたい…あらためてそう思いました。

今月でお別れするみなさん、当分の間は、ここでの事などさっさと忘れ、新しい出会いを大切に育んでいって下さい。
お付き合いの続くみなさん、子ども都合優先で、ちょっと大人には不都合な?園に愛想を尽かさず、もうしばらく、おつき合いください。

本年度もたくさんの応援をありがとうございました。

(平成29年3月号「園だより」より)

スイーツの誘惑

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穏やかな冬晴れが続いています。
おかげで、年度の終盤を迎えることと相まって、そこここで、外遊びの充実ぶりを感じる毎日です。

園内への開き戸の真正面にある飾り棚で繰り広げられている「ケーキ屋さん」ごっこもそのひとつ。型抜きをした砂のケーキに、園内で摘んだ花や拾った枯葉などの自然物を飾り、たくさんのケーキが陳列されています。そこはちょうど、職員室の前ということもあり、私を含め、職員たちにとって、絶好の観察の場となっています。

ある朝、私が門扉を開くと、友だちになにやら話しかけながら、陳列したケーキの位置を調節していた女児の姿。会話に夢中になりすぎたのたのか、思わずよろけてついた手は、不幸にも、まさにそのケーキの真上でした。

私もあっと息を飲み、泣いて悔しがるのかなと見守っていると、粉々になったケーキをしばらく見つめた彼女は、「あぁあ、やり直し。」と見事に私の予想を裏切り、お盆を手に、砂場に駆け出していきました。

また別の日。職員室から、ケーキの棚を眺めながら興味深げに会話する、職員二人の声が聞こえました。どうしたのかと問うと、

「今、私と目が合った瞬間、○○ちゃんが、ばつが悪そうに、すぅっとケーキ棚から離れていって…」

「確かに、型抜きした砂ケーキって、思わず舐めてみたくなるよね。」と何とはなしに応じる私に、

「私って意地悪なのか、並んでいるケーキを潰そうとしているように見えて…。」

私よりもずっと、子どもたち一人ひとりの抱える思いを掴んでいる彼女の方が、きっと正しいのですが、

「そうか、型抜きされた、あの滑らかな表面、思わず崩したくなるよね。水たまりに張った氷とか、霜柱とか…」

こんな脳天気な奴に、付き合っていられないと思ったのか、「そういえば今年、霜柱を見ないですね。」といった内容へと会話は流れて行きました。

そして先日、他園の園長たちと語り合う中で、「年長さんが撒いた種から出た芽を、年少の子が、面白そうに次々抜いちゃうだよね。」と笑いながら、エピソードを紹介してくれた人がいました。

「だけど、年長さんはね、収穫する時も、実に手をかけながら、同意を求めるように、いちいち職員の眼を見て確認するんだよ。」

理由はなんであれ、他者の存在や眼差しを感じながら、自分の行動をコントロールしようとすることも、ひとつの成長の姿だよなと、あの飾り棚の一件を思い出しながら、聞いていました。すると、

「でもね。本当はそこ、子ども自身が自己決定すべき場面だよね。保育者は、眼をそらさなくちゃ。」と続きました。

子どもが収穫する野菜なのに、保育者が、その良し悪しを安易に伝えることで、子ども自身で考えてみる機会を奪ってはいないか、判断を他者に依存するような、人の眼を気にして判断するような、そんな習慣を、子どもたちに植え付けてはいないか…そうした、大人に対する投げ掛けのように、私には思えました。

まだまだ経験の少ない子ども自身に、判断や決定を委ねていくことは、数多くの失敗を見守っていくということです。なかなか結果の出ないプロセスを、根気強く見つめていくことだと思うのです。

もしあの時、あの子が飾り棚のケーキを潰してしまっていたとしたら、周囲も巻き込む騒動に発展していたのかもしれませんが、それもまた、当事者たちの育ちの道のりになっていったのかも…園内のあちらこちらで、そんな育ちの分岐点を越えながら、子どもたちはこの冬を過ごしています。

この飾り棚の周りで繰り広げられているケーキ屋さんごっこは、春に4・5歳児たちが始めたものですが、まず、拾い集めた自然物を使ったデコレーションが発展。お店の装飾、店周りの清掃、お買い物ポイントの導入、クレジットカード利用が可能になるなど、実店舗さながらの道筋を辿っていきました。

夏頃に、それが3歳児へと引き継がれたかと思うと、しばらくの閉店。そして12月のクリスマスシーズンに合わせた、突然のリニューアルオープンには唸りました。役割分担に看板、接客マニュアルを作り、ラジカセを持ち出しBGM。値札のほとんどが、なんと0円という、顧客満足度の高いお店に成長しています。(飾り棚横に、このプロセスの記録を掲示してあるので、ぜひご覧ください。)

子どもも大人も巻き込みながら、それぞれのドラマを散りばめながら、盛衰を繰り返しながら、長きに渡り流れてゆく…そんな活動もあるのです。

(平成29年2月号「園だより」より)

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