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幽体離脱という育ち

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梅雨の時期を迎えました。
梅雨の語源は諸説あるようですが、これを「つゆ」との読み変えた先人の感性に脱帽です。

そして日本では、田植えを告げる季節でしょうか。バケツとはいえ、初めて、米作りに挑戦するかぜグループの子どもたちも、小さな小さな苗の芽吹きに今、心踊らせている…そんな話を担任から聞きました。

私にとって、担任たちの思いに耳を傾ける機会は、会話の他、文字を通した保育の記録があります。そこで一緒に考えたり、私自身、学ぶことがとても多いような気がしています。

そうした記録の中の、とある一節をご紹介します。

まだまだ、遊具や道具の使い方・片付け方が未熟な3歳児。それを見咎めた5歳児たちが、

5歳児たち「いけないんだぁ。」
保育者「優しく教えてあげて。」
5歳児たち「それは先生に聞いてから出すんだよ。」「使い方が違うよ。」

などと言葉を変えていく姿、またそれを受け入れていく3歳児の姿に、子ども同士の関わり合いの重要性を感じた、という内容でした。

「優しく言って」ではなく、「教えて」という言葉を選んだ保育者の意図に、見事に応じた姿は、さすが5歳児ですね。
これがもう少し幼い子ならば、ただ柔らかい語調に変えるとか、「先生が言ってたでしょ!」となりかねない所ですが、相手が「何をわかっていないのか」を考える力があるからこそ、「方法を伝える」言葉が出てきたのではないでしょうか。
これは「相手の立場に立って」考える力とも言えます。「他者視点の獲得」とも言われるこういった育ちは、就学前の乳幼児期に飛躍的に身につけていく力で、私たち大人も「成長したなぁ」と実感するポイントの一つですよね。

もう少し詳しく説明すると、3歳くらいまでは、「嬉しい」「悲しい」といった他者の「単純な」感情を、そして4歳以降からは、感情の「状態」や「背景」、他者の「立場」や「考え」なども、徐々に理解していくと言われています。
先ほどの年長さんたちは、まさに3歳児の立場(まだ新しい環境に不慣れなこと、理解力がまだ乏しいことなど)を想定しながら、言葉を選んでいるように見えます。まさに「教える」とは、こういうことですよね。

こうした力は、日々のぶつかり合いや共感など様々な関わり合いを通して、表情や声、体の動きなどを手がかりに推測し、少しずつ獲得していくのですが、実は、運動神経や手先の器用さ、音感などと同じように、これにも得手不得手があることを忘れないようにしたいものです。年齢を挙げたのは一つの目安。もちろん、サポートが必要な場合もありますが、結果として、それぞれのペースで育っていけばいいのだと、私は思っています。

それにしても、自我を離れ、他者の視点や思いの中に滑り込んでいくこの劇的な飛躍を、生まれてわずか数年の間に遂げていく凄さに、単純な私は、バカみたいに感動してしまうのです。

一方、他者の思いに気づくのは、同時に、自分という存在(自我)をしっかりと形作っていくからです。0〜2歳くらいの子どもたちは、まさにこれを頑張っている真っ最中。ここを育てるには、「自分の思いは他者に共感された。自分は認めてもらえた。」という経験が軸になります。そのためには、ご家庭も含めた私たち大人の役割が大きく影響しますね。

先の5歳児のエピソードの土台は、実はこの0〜2歳期にあることもぜひ、心に止めておいて欲しいと思っています。

さて、3〜5歳児の記録をもう一つ。
かぜグループでも、意図的に「朝の会」を設定しない日があります。そうしたある日、製作コーナーで物作りに取り組むひとりが、

「今日はずっとここにいていいの?こういう日、大好き!」

まさに、この思いを受け止めるための設定であっただけに、この保育者は、ある種の手応えと共にこの言葉を拾ってくれました。

と同時に、「朝の会」を通し、他者の言葉や思いを聞き合うことから、別の世界とも出会わせていきたい…、
「こういう日も大好き!」
と言わせたい…そんな闘志?も密かに燃やしているのでは…そんな勝手な想像を膨らませながら、読み入っていました。

(平成29年6月号 園だより「ひぐらし」より)

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きらきらと光る新緑、そして木漏れ日が映し出す影との力強いコントラストは、さあ進めと、私たちに生きるエネルギーを与えてくれているようです。

先日の懇談会後の午後、親父の会の面々によって、園内の畑の畝づくりが行われました。

まずは雑草取りから始まるのですが、なんとその中に、冬に収穫しそびれ、見事、越冬を果たした立派なほうれん草の一群を発見。それはそっと取り分けておいて、いよいよ硬くなった土の掘り起こし、そして耕作へと入ります。

一昨年の増築による畑の移動で、新たな「開墾」を余儀なくされ、親父たちを苦しめた昨年度。今年は多少は耕しやすくはなっていたのですが、それでもひと冬を放っておいた土を畑に戻すのは、かなりの労力です。それに、まだまだ除ききれていない石や増築時のガラが残っていて、それを除去しながらの作業は、まだまだ、親父たちの手をわずらわせるものでした。

この辺りの土は粘土質が多いのか、鋤(すき)がコツンと石に当たったのかと掘り起こしてみると、硬くしまった土の塊なんていうことが頻繁にあります。

農作物に詳しい親父さんの一人によると、トウモロコシを植えれば、根っこがそれを砕いてくれるとのこと。なるほど、だから開墾された、かの北の大地では、たくさんのトウモロコシが育てられているのかも。芋虫(幼虫)の多い土では根が食われる…なので虫の嫌う石灰を多めに入れ、石の多い土では、それを避けて育つ根菜は形が歪む、土を細かくすればするほど、水持ちが良い…。

皆で汗を流しながら、こういったことを教えてもらっていると、足下の土の中で根や虫や水や肥料が、戦い蠢きあっている映像がだんだんと頭に浮かんで来るもので、そういった目に見えない地中を語れるこの親父さんはすごい…と聞き入ってしまいました。

IMG 2196そして「土」と戯れた次は…「水」でしょう…ということで、翌日の日曜日は、海へ魚釣りに出かけてみました。

春の風を切って漕ぎ出た大海原、そのど真ん中で、針に生き餌に通すことに孤軍奮闘する海の男が一人。その姿に技量を見とった船長が、手取り足取り、面倒を見てくれました。

海釣りをしたことのある方はご存知だと思いますが、海の釣りでは、針の少し手前に、小エビや魚のミンチを入れた小さなカゴを付けて、それで魚を誘う釣り方があります。なので、ぐいっと一瞬強く竿を強く揺らし、そのカゴの中の餌を海中で散らすのですが、「ダメダメ、それじゃ散らないよ」と船長。どうして見えない海中の様子がわかるのか…不思議に思いながら手ほどきを受けるのです。

さらに、「海底から2メートルくらいにいるから、少し巻き上げて…」と確信に満ちたな言葉に…ギョギョッ!どうしてそれがわかるのですか!…さすがにこれは、魚群探知機で見ているのですね。それでも、船長の話を聞くうちに、カゴから散る撒き餌に、夢中になって集まる魚の群れを…感じて来るのでした。

見えないものを見る人…この船長も、私にすればすごい人です。きっとこれが、専門家と言われる条件なのかもしれませんが、その言葉に耳を傾けているうちに、私にも見える気がしてきたのは、その時、私も懸命に「見よう」としていたからなのかもしれませんね。

太公望曰く、魚は「釣れる」のではなく、己の腕で「釣る」ものなり。もの言わぬ子どもの心情もまた、「見えない」のではなく「見よう」としない己を、まず疑ってみるものなのかもしれません。

先の畑作業、それが終盤に差し掛かった頃、みるみる空が暗くなり、突然のにわか雨に襲われました。想定外の雨…今日のメンバーには、「空」を見ることのできる親父はいなかったようで…こんな時のスマホの雨レーダーでは、雨雲は小一時間で通り過ぎる模様。

ならばと、テラスの子どもキッチンで、冬越しのほうれん草を炒めながら待つことに…これもまた、よきかな。

親父たちに深謝。

(平成29年5月号 園だより「ひぐらし」より)

 

 

乗り越えて行け

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桜の満開よりひと足先に、園庭の花々が、新年度を彩ってくれました。

そして…ようこそ!誠美保育園へ、新しいクラスへ。お待ちしておりました。

入園、進級それぞれに期待と不安が入り混じるこの時期。入園されるご家庭にとっては、一層その思いが強いのではないでしょうか。
子どもは環境の変化に敏感ですが、その分、順応性もずっと高いものです。これを「柔軟な心」と言ってしまえば、それまでなのですが、きっとそれは、子どもならではの、「素直」に感情を表現できる力のおかげだと思っています。

思いっきり泣いて、笑って、怒って、ちょっとしたことで不機嫌になったかと思ったら、突然機嫌を直したり。そういうことが、十分に許される環境があるからこそなのかもしれません。これも大事な「自己表現」。周囲の大人たちがそれを、「そうなんだね。」と、丁寧に受け止めていくことで、少しずつ乗り越えていくのだろうなと思うのです。

その一方で、そんな荒っぽい感情表現ができない?許されない?大人の方が、実は、ずっと大変なのかもしれません。

大笑いは大いに結構なのですが、大の大人が突然、激しく泣いたり、怒ったり…確かに、周囲も戸惑うのかもしれませんが、伊達に年を重ねてきたわけではない大人たちには、「言葉」という、うまい道具があります。不安な気持ちは、素直に「不安なんだ」と、言葉でその心細さを伝えてよいのだと思います。

しかし、これまた伊達に年を重ねてしまった私たちは、この「素直」が意外に苦手です。気遣いという奥ゆかしさ、そして、人に認められたいという焦りや、時には大切なはずのプライドさえも…素直になることを邪魔するのです。

そして、「不安」な気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをするうちに、それはやがて、周囲への不信感や非難へと形を変え、表現されてしまうものなのです。

不安を乗り越えるために、大人だって、素直に「自己表現」していいのです。ただ、大人の場合、先のような様々な雑念を乗り越えて、本当の自分の不安感や辛さに辿り着いて向き合って、ようやくそれを言葉にできる…そうした本物の強さと勇気に敬意を払いながら、私たちなりにそれを精一杯受け止め、未熟ながら一緒に考えていきたい…そう思っています。

受け止める力、受け止めてもらう力、親になっていくことは…名実共に大人になっていくことは…本当に大変で…いつも途上で…気づきの連続で…だからちょっと…面白い。

子どもに、保護者に、地域に、そして私たち職員に…それぞれにとって心地よい居場所となるように
それが「ここ」の理念です。

自分の存在が位置付いている、認められていると感じた時、人はそこを居場所と感じます。反対に、他者を認めていく、位置付けていくのもまた、その場にいる人たちです。それを皆さんと本気で作り上げようとしているのが「ここ」です。

自分の居場所の数だけ「幸せ」の数も増えていく…そんなことを…一緒に信じていきませんか。

(平成29年4月号 園だより「ひぐらし」より)

新年度、気持ちも新たに園だよりの誌名を「誠美だより」から「ひぐらし」と改名をした。

漢字にすると「蜩」…ではなく、「日暮らし」。
「暮らし」という言葉は、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、それらに醸成された文化をも含み込んでいるように私には感じられる。

  今に夢中な「その日暮らし」
  いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
  今日こそはと挑む「この日暮らし」

 子どもにも大人にも…それぞれの暮らし…営みが積み重なっていく場を目指して、そして蜩(ヒグラシ)が鳴き出す夕刻まで、夢中になって遊んだ…あの子ども時代への仄かなノスタルジーと、そんな思いなど越えて行けという…今を生きる子どもたちへのエールを込めて。

東京 ブラ ストーリー

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梅の花もほころび、別れと出会いの春へと、いよいよ季節は動いていきます。

この時期に、順次ご家庭にお配りする「歩の記」。その発行の前段階で、毎回私は、112人の子どもたち全員の「生きる姿」のワンカットを、走馬灯のごとく垣間見ていけるという、栄誉に浴するわけです。

担任たちの、子ども一人ひとりに対する「深さ」には遠く及ばないのかもしれませんが、全園児の「生き様」のシャワーを浴びながら、何とも言えない幸福感に浸る時間を持てているのは、おそらく私だけなのでは…というのが密かな自慢です。(職員一同に感謝)

ちょうど今、読み進めているクラスが、にじぐみ(1歳児クラス)の面々。
2歳を迎えたこの時期の彼らは、手先の運動を含めた身体能力の育ちも著しく、それを使いたくてうずうずしています。しかし、物の道理はまだまだこれから。底の空いた器に懸命に砂を貯めようと葛藤したり、誰かと一緒に作業を進めたり、物の貸し借りや取り合いなど、他者の存在をはっきりと意識して遊び始めるのもこの時期です。

さらにそこへ、「こうしたい!」という激しい自己主張(自我)を載せてくるものだからで、一見穏やかに流れるそれぞれのストーリーにおいても、内面は、大きく揺れ動いている様子が、本当に面白くて…失礼、当人たちには大問題です。

なので私は、こういった様子を「優しい」とか「楽しそう」とか「怒っている」とか「悲しそう」だとか、そういった言葉でまとめて欲しくないと思っています。その子の本当の心情とは何なのかを掘り下げて見取ってほしい、そしてそれを厳密に表現する言葉を探してみてほしい…そう思っています。

書くこと、表現することは「考えること」「思いを馳せる」ことです。確かに少し手間暇が取られることなのですが、その時間こそが「考える」ため時間なのだと思うのです。

生まれてまだ数年の子どもたちの心情、感情はある意味、よくも悪くも粗野でシンプル…それを耳障りの良い短い言葉でまとめようとすると、その真の思いをつかみ損ねる事を恐れます。反面、粗野でシンプルであるが故、その純粋さに大人たちは心打たれます。(それにして、心で怒りながら笑うことのできる私たち大人って、本当に高度で…厄介な存在ですね。)

そして、にじぐみの記録を読んで見えたもう一つの姿は、「立ち止まる姿」、そして「移動する姿」です。

目的地へ向かっていたはずが、途中の他児の遊びに気を取られたり、夢中になっていた遊びを、ふとしたきっかけで離れてしまったり、やっと手に入れた玩具を、そこそこで放置してしまったり。(これは3歳くらいでもよく見られる姿です。)

自我が発達する姿を捉えて、2歳児を、「イヤイヤ期」と称することがありますが、このネガティブな表現を止めて、「ブラブラ期」と言い換えては?という話を聞いたことがあります。

「集中している」という表現は、なぜか大人たちが安心するキーワードの一つですが、その一方で「どこかに面白いものないか」「おっ、これは何だ」…そんな思いで、園内をブラブラする姿…これをポジティブに捉えることのできる発達観を、忘れないようにしたい…あらためてそう思いました。

今月でお別れするみなさん、当分の間は、ここでの事などさっさと忘れ、新しい出会いを大切に育んでいって下さい。
お付き合いの続くみなさん、子ども都合優先で、ちょっと大人には不都合な?園に愛想を尽かさず、もうしばらく、おつき合いください。

本年度もたくさんの応援をありがとうございました。

(平成29年3月号「園だより」より)

スイーツの誘惑

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穏やかな冬晴れが続いています。
おかげで、年度の終盤を迎えることと相まって、そこここで、外遊びの充実ぶりを感じる毎日です。

園内への開き戸の真正面にある飾り棚で繰り広げられている「ケーキ屋さん」ごっこもそのひとつ。型抜きをした砂のケーキに、園内で摘んだ花や拾った枯葉などの自然物を飾り、たくさんのケーキが陳列されています。そこはちょうど、職員室の前ということもあり、私を含め、職員たちにとって、絶好の観察の場となっています。

ある朝、私が門扉を開くと、友だちになにやら話しかけながら、陳列したケーキの位置を調節していた女児の姿。会話に夢中になりすぎたのたのか、思わずよろけてついた手は、不幸にも、まさにそのケーキの真上でした。

私もあっと息を飲み、泣いて悔しがるのかなと見守っていると、粉々になったケーキをしばらく見つめた彼女は、「あぁあ、やり直し。」と見事に私の予想を裏切り、お盆を手に、砂場に駆け出していきました。

また別の日。職員室から、ケーキの棚を眺めながら興味深げに会話する、職員二人の声が聞こえました。どうしたのかと問うと、

「今、私と目が合った瞬間、○○ちゃんが、ばつが悪そうに、すぅっとケーキ棚から離れていって…」

「確かに、型抜きした砂ケーキって、思わず舐めてみたくなるよね。」と何とはなしに応じる私に、

「私って意地悪なのか、並んでいるケーキを潰そうとしているように見えて…。」

私よりもずっと、子どもたち一人ひとりの抱える思いを掴んでいる彼女の方が、きっと正しいのですが、

「そうか、型抜きされた、あの滑らかな表面、思わず崩したくなるよね。水たまりに張った氷とか、霜柱とか…」

こんな脳天気な奴に、付き合っていられないと思ったのか、「そういえば今年、霜柱を見ないですね。」といった内容へと会話は流れて行きました。

そして先日、他園の園長たちと語り合う中で、「年長さんが撒いた種から出た芽を、年少の子が、面白そうに次々抜いちゃうだよね。」と笑いながら、エピソードを紹介してくれた人がいました。

「だけど、年長さんはね、収穫する時も、実に手をかけながら、同意を求めるように、いちいち職員の眼を見て確認するんだよ。」

理由はなんであれ、他者の存在や眼差しを感じながら、自分の行動をコントロールしようとすることも、ひとつの成長の姿だよなと、あの飾り棚の一件を思い出しながら、聞いていました。すると、

「でもね。本当はそこ、子ども自身が自己決定すべき場面だよね。保育者は、眼をそらさなくちゃ。」と続きました。

子どもが収穫する野菜なのに、保育者が、その良し悪しを安易に伝えることで、子ども自身で考えてみる機会を奪ってはいないか、判断を他者に依存するような、人の眼を気にして判断するような、そんな習慣を、子どもたちに植え付けてはいないか…そうした、大人に対する投げ掛けのように、私には思えました。

まだまだ経験の少ない子ども自身に、判断や決定を委ねていくことは、数多くの失敗を見守っていくということです。なかなか結果の出ないプロセスを、根気強く見つめていくことだと思うのです。

もしあの時、あの子が飾り棚のケーキを潰してしまっていたとしたら、周囲も巻き込む騒動に発展していたのかもしれませんが、それもまた、当事者たちの育ちの道のりになっていったのかも…園内のあちらこちらで、そんな育ちの分岐点を越えながら、子どもたちはこの冬を過ごしています。

この飾り棚の周りで繰り広げられているケーキ屋さんごっこは、春に4・5歳児たちが始めたものですが、まず、拾い集めた自然物を使ったデコレーションが発展。お店の装飾、店周りの清掃、お買い物ポイントの導入、クレジットカード利用が可能になるなど、実店舗さながらの道筋を辿っていきました。

夏頃に、それが3歳児へと引き継がれたかと思うと、しばらくの閉店。そして12月のクリスマスシーズンに合わせた、突然のリニューアルオープンには唸りました。役割分担に看板、接客マニュアルを作り、ラジカセを持ち出しBGM。値札のほとんどが、なんと0円という、顧客満足度の高いお店に成長しています。(飾り棚横に、このプロセスの記録を掲示してあるので、ぜひご覧ください。)

子どもも大人も巻き込みながら、それぞれのドラマを散りばめながら、盛衰を繰り返しながら、長きに渡り流れてゆく…そんな活動もあるのです。

(平成29年2月号「園だより」より)

彼 の 名 は 。

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明けましておめでとうございます。

年末から年始にかけて冬晴れが続き、日中は暖かく、穏やかで気持ちの良いお正月でした。

年末の餅つきでは、子どもたちが鏡餅を作っていました。今年度は、餅つきの日程を数年ぶりに1月から12月に戻したおかげで、久方ぶりに本物を鏡餅が飾ることができました(ホール掲示板下にお供えしています。)。

IMG 1977鏡餅は、元々はお正月にやって来る歳神様へのお供え物です。しかし、歳神様は、決してお餅を目当てにやって来るような、ただの食いしん坊ではありません。なので、歳神様を迎え入れるためには、園周辺で迷って、三徳やマツキヨあたりに入ってしまわないよう、玄関に目印(依り代)を付けておく必要があります。それが門松。当園では、少し簡略化した松飾りを正門に飾っていますのでバッチリです。

ここまで準備しておけば、初日の出と共に歳神様が来園し、そのまま鏡餅に宿ると言われていますので…今年の餅なら尚のこと完璧です。

そしてまさに今、ホールの鏡餅の中に、そのお方を捕獲…いえ、御休みされているはずなので、くれぐれも大声で話しかけたり、揺すったり、叩いたりはせず、そっとしておいてあげてください。優しくなでるくらいなら、案外喜ぶかもしれません。

さて、こうしてお越しいただいた歳神様なのですが、三が日も明けると保育も始まり、私たちも何かと忙しい…もう十分に…と、これ見よがしに松飾り、鏡餅など正月飾りを片付け始めるのが1月7日(関東では)。12月13日に始まった「松の内=歳神様へのおもてなし期間」がようやく明けます。

そして1月11日は、鏡餅を木槌で叩き割る鏡開き。無病息災を祈願して歳神様が宿るそのお餅を頂くのが習わし。(残念ながら、園では衛生管理上、割るだけです。歳神様ごめんなさい…清潔…いや神聖なくらいのお方なのに。)

一方、松飾りはあまり気にせずにゴミ箱に…というわけにはいきません。神聖な依り代は、1月15日の「どんど焼き」で炊き上げてもらうため、当園の場合、小山内裏公園へと持参します。

こうした年末年始の習慣にも、それぞれに意味があり、それをつなぐストーリーがあります。こだわれば、まだまだ細かな作法はあるのでしょうが、少なくとも園内での歳神物語は、年明け前に餅がつき上がらないと話が動き出さない…これが12月に餅つきを戻した理由です。

IMG 1985何もそこまで…と言ってしまえばそれまでなのですが、それが「文化」というものではないでしょうか。

特に信心深くもない私でさえ、歳神様なんてと否定したくとも、畏れのような期待のような、それに抱く、いかんとも形容しがたい奇妙な感情は拭いきれません。こうした感覚は、誰かに教えてもらったというよりも、見えもしない神様を、大の大人たちが真面目な顔で、手間暇惜しまずに、おもてなしする姿を見ていくうちに、何となく身についたもののような気がします。

つまり、そこにいる大人たちの行動、生活する姿、生きる姿を通して、自然に「漂って」いく(しまう)ものが、文化なのではないでしょうか。なので誤魔化しようもありません。そして、子どもたちは、それを深く吸い込み、全身に行き渡らせながら育っていき(しまい)ます。

さらに、見えないものが存在するかのように振る舞うその様子は、まるで日本国中で脈々と受け継げれて来た、壮大な「見立て遊び」のように思いませんか。

かみさま、ここにいること…ね。

こんな「神様ごっこ」?も、真剣にやり続けていると、建築物や装飾品といった様々な様式美、美術、加工技術などが、次々と生み出されていくものなのですね。「想像」は、「創造」の源であることを実感します。

IMG 1973歳神様と正月飾り、いつの日か、お子さんが興味を持つ日が来た時に、ぜひご家庭でも、何度でも話をしてあげてください。これは絵本の世界に勝るとも劣らない、偉大なるファンタジーです。

科学的、統計的、効率的…現代社会の信仰に少々押され気味な、不確かで曖昧で要領を得ないもの…これも大事にしたい「豊かさ」の一つだと思うのです。

家庭の文化、そして園の文化、今年も一緒に育ててください。

(平成29年1月号「園だより」より)

そして、表現はめぐる

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どんどん早くなる夕闇の訪れに追われるように、あっという間の冬の到来。

運動会、おにぎりの日、みんなの作品展、芋掘り・焼き芋、お楽しみ会…今年の秋もなんだかんだと…楽しかったよなぁ…そんな総括をして、私たちに伝えてくれないのも…また子どもたち。それでも色んな事があったんです。

特に晩秋は、みんなの作品展、お楽しみ会と「表現」することを考える機会や活動が続きました。

作品作りを通した交流をと、毎年開催する「みんなの作品展」。出展くださった皆さん、ありがとうございました。新たな作品を飾りつける度に、「今度は誰の?」と興味深げに近づいてくる子どもは多いのですが、その作品に触発され、制作を開始する子どもたちも少なくありません。今年は、N先生ご愛息T君の作品、厚紙で立体造形した旅客機の模型数機に心奪われた子どもたちが、それぞれのイメージや技術を駆使した紙飛行機を、次々と出品してくれました。

「発想とは対話」、以前耳にした禅問答のような言葉ですが、己の発想とは互いに刺激し合う事でのみ生ずる…今回はそう読み解いてみました。展示を前に、作者の別の一面に驚きながら語り合う事も楽しいのですが、作品自体で誘発し合うのもまた交流です。

そして先日の「お楽しみ会」、4・5歳児はクラスの枠組みを解き、子どもそれぞれが、劇かダンスパフォーマンスを選択して取り組むという新しい形に挑戦してみました。なので、そのプロセスを記録した今回の「絵巻」は、職員ミーティングの様子からスタートしています。

その中で触れられているように、今回の形は、夏のお神輿作りの経験(5歳児の3チームがプレゼンテーションをして3・4歳児から製作メンバーを募る。)によるところも大きかったようです。いわゆる作品の出来栄えを目標としない私たちの活動なのですが、完成した今年のお神輿は、一味違うように私たち保育者は感じましたし、保護者の方々からもそういった感想をいくつも頂きました。そこを求めていないのに、子どもたち決めた(選んだ)内容に対し、保育者がそのプロセスを丁寧追っていこうとした結果、図らずも心動かされるものになっていた…そんな印象を持ちました。

よく考えてみると、お神輿作りも劇遊びやダンスも、その過程では様々な経験を期待はしているのですが、最終的には何かを「表現」することがゴールになっています。「自分が表現したい事を表現する」という、当たり前といえば当たり前の行為、そしてその子どもなりの思考錯誤を大人(保育者)がどう支えていくのかが、鍵なのかもしれません。

さて、そんな今年お楽しみ会、幕間の有志によるパフォーマンス、そして「楽しかったぁ」とつぶやきながら、舞台袖に戻ってくる子どもたちの声。「見せたい気持ち」が、グッと前に出ていたように、私には感じられたのですが。

もうひとつ印象的だったのが、2歳児たちの保育室でのごっこ遊びの披露でした。この年齢で敢えて場を設定することの意味を、自問自答しながら取り組んできてはいるのですが、特に今年は、みんなが臆する様子も見せず、本当に「遊んで」いるかのように私には見えました。

子どもたちとの間でも「見せる」という事は脇に置き、ただごっこ遊びを楽しみ続けたこと、遊びなので気乗りしない子は無理に誘う事もしなかった…これが担任たちのこだわりだったようです。

そして表現したいという思いの育ちは、0〜1歳児クラスで実施した、親子でのふれあい(わらべうた)遊びなど、身体を通した穏やかでシンプルな、情感の交換から始まっていきます。
表現する者とそれを観る者(受け手)、この2者があって初めて成立するのが表現活動です。なので、実は受け手の力量(共感力)も試されているように思うのです。

これは、総括し過ぎて、日常の中にある、小さくてささやかな感動を、つい忘れてしまう…そんな大人たちへの問い掛けであるような気もします。

まもなく年の瀬を迎えます。

(平成28年12月号「園だより」より)

イモジェクト X

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10月末に4・5歳児が伊藤農園で掘ってきたサツマイモで、今月は焼き芋を楽しみました。

例年、かぜグループ(3〜5歳児)が中心になって、そのお芋を洗って、焼いて、売り歩くという、いわゆる焼き芋屋を開店して全園児に振舞うというスタイルなのですが、今年はリヤカーでの引き売りではなく、露天販売を展開しておりました。

焼き芋の命は、なんといってもその焼き加減。実は今年、焼き方に大きな方針転換がなされました。
そもそも焼き芋なんてものは、庭先の落ち葉焚きの暇つぶしに、うまくいった、丸焦げになっちゃった!なんて談笑しながら、遊び半分にのんびり楽しむもの…だったはずなのですが、百人以上の胃袋を満たすため、一定の品質と制限時間内の量産が求められたとたん、その様相はだいぶ変わってきます。

IMG 1691まず、大量の落ち葉の調達。園庭だけでは間に合わず、この時期になると子どもたちは、落ち葉がいっぱいに詰まった大型のビニール袋を抱え、お散歩先から帰って来る事になります。それを見かねた保護者が、自宅周辺で集めたものを届けてくれた事もありました。しかも5〜6袋になったそれを、雨露を避け、乾燥したまま保存しておく必要があります。

しかし短時間で大量の芋を焼くための熾火を作るためには、実はこの程度の量の落ち葉では足りません。なので、当日は、園庭の植栽を伐採した薪(まき)をたくさん燃やして、大量に作った熾火の上に、濡れ新聞を巻き、それをアルミホイルで包んだ芋を並べるのです。そしてその上に、子どもたちが落ち葉をパラパラと撒く…そう、芋を焼いていたのは、実は薪の熾火なのです。それでもまだなかなか火が通らないので、事前に芋を小さく輪切りにしたり、挙句の果てに茹でておいたりして…。

「焼き芋〜いかがですぁ!」と楽しそうに売り歩く子どもたちを横目に、う〜ん、何か違う…焦げ目の入ったスライス状の茹で芋をかじりながら、これは一体焼き芋なのだろうか…とつぶやき続けること数年。

今年こそ、本物の焼き芋を!と意を決し、密かに動き出した職員プロジェクトチームが出した結論が、「炭火を起こして焼く」。つまりそれは…「落ち葉焚きからの脱却」という覚悟の選択でした。

その作戦は見事的中。炭火の強い火力、遠赤外線の威力で、丸ごと20本程のお芋が、30分ほどでまんべんなく確実に焼き上がっていきます。団扇で仰ぐばかりで、手持ち無沙汰の子どもたちのために、落ち葉は「少しだけ、パラパラっとね」と隠し味程度にお願いをして。IMG 1695

そして焼き上がりを割った時の香ばしい香り、深い色と艶、濃厚な甘さ…これぞ本物の焼き芋。この感動、きっと子どもたちにも伝わっているはず!と胸を張るプロジェクトメンバーたち。

石焼き芋に代表される「引き売り」は、戦後になってからだそうですが、江戸時代の頃から土鍋などで焼いたものが、店先で売られていたそう。どちらかというとジャガイモ派の私としては、どうしてサツマイモを焼くのか不思議だったのですが、「焼き芋」は俳句の季語になるくらい、昔から冬の風物詩だったようで。

「これならどんな野菜もいけるし、網をかければサンマも焼ける!」と子どもそっちのけで、来年への期待を膨らませる火を囲んだメンバーたち…やっと本物の焼き芋に辿り着いたというのに…今度はどこへ向かおうというのか。

目に染みる煙を避けながら、焼けたかなぁと、焚き火をかき分け小枝でツンツン…そんな情景も本当は捨てがたい。

今の子どもたちの心には、どんな原風景が刻まれていくのでしょうか。

(平成28年11月号「園だより」より)

手掛かりを求めて

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園庭の芝生の種まきを終え、ひと月ばかりの養生の間、滑り台方面へ渡るための「橋」をかけました。
爽やかな秋の入りを期待した9月でしたが、あまり日差しを感じることもないまま、この種まきを境に、園内は徐々に冬じたくに入っていきます。

この不安定な秋の空に振り回された先日の運動会は、宮上小体育館での開催となりました(地域の資産に感謝)。
園庭実施が危ぶまれると、我々職員たちも「ああ…」と一瞬肩を落とすのですが、いざ体育館で実施してみると、コンパクトな状況が一体感を産み、毎回、これはこれで…といった感も持ちます。

そうした中、それは、はなぐみ(2歳児)の親子が中央でダンスを演じている時の事でした。そのすぐ脇で、次の出番を待つかぜグループ(3〜5歳児)の子どもたちが、中央で演じるダンスに合わせて、楽しそうに腰を振って踊る姿が目に入りました。ウズウズして自然に動き出してしまう体は止められない…といったようすの彼らの「演技」に、思わずに見入ってしまいました。(はなぐみの皆さん、ごめんなさい。)

私は毎年、この運動会やお楽しみ会(劇遊びの会)の季節になると考えてしまいます。この時期の子どもたちにとって、人前で「披露」することの意味って何なのだろうかと。

体育館の端で、中央の動きを真似て嬉しそうに体を揺らす子どもたちの群れに分け入って、時折「体、動いちゃうね」と目で応じ合いながら、いっしょに体を躍らせていく。もしかしたら、そんな状況に、この時期の子どもは「披露」した実感を持つのではないのか。不特定多数の人ではなく、まず私の大好きな「あなた」に見てもらいながら、このワクワクを共有して欲しい…あの子どもたちの笑顔は、そう語っているように感じました。

そして運動会を終えた秋晴れの日、とり(5歳児)の子どもたちに混じって、多摩動物公園へ出かけてきました。
遠足シーズンの到来とあって、正門前にはものすごい数の団体。テキパキと入場者を捌くために、いつも以上に配置された係員たちにとって、その日、一番手のかかる動物は「ヒト」だったようで。

園内の無数の隊列に、我が隊も分断されることもしばしばだったのですが、職員の手数もあったおかげで、程よく小隊に割れたり合流したりしながら、みんな一日よく歩いたなと感心しました。

こうした園外へ出かける際は、安全やマナーの面からも、いわゆる団体行動というやつが求められるのですが、「一糸乱れぬ」を求め過ぎても、せわしなく前の子の背を追うだけで、個々の興味や満足感が失われてつまらない経験になってしまうもの。そこでは、いい塩梅の「緩さ」も大事な事だと思うのです。

この塩梅を可能にするのは、それを囲む大人たちの暗黙の連携。その日も、大人同士のコミュニケーションは最小限に、保育者それぞれが、子どもとのやりとりを楽しみながら過ごすようすが印象的でした。それが結果として、隊のまとまりに繋がっているのかもしれません。

さらに先日、手洗いの手順を知っていく真っ最中のはなぐみ(2歳児)の記録に、こんなやりとりの記述がありました。

「水を出し過ぎないようにね。」と声をかける保育者。すると「どうしてたくさん出しちゃだめなの?」「たくさんあるよー。」と蛇口を開いて見せる子どもたち。「お風呂でも使うからだよ。プールでも使ったよね。」と咄嗟に応じたものの、資源や物を大事にするという気持ちを、2歳児にどう伝えていけばよいのか迷うところ…という内容でした。

これこそ日本中、いや世界中の親をも悩ませる「ナゼナゼ期」。確かに!水はいくらでも出ますよね。皆さんなら、どう説明しますか?

2歳児くらいまでなら、きっと言われた通りにしておしまいになるところが、3歳を迎えるこの頃になるとその理由を知りたがり、自分なりに納得を伴った行動をとろうとします。なんてすごい、感動的な成長だと思いませんか?

ちなみに、そういった子どもの疑問に対する返答に、正解はありませんので、孤軍奮闘して下さい。ただ、そうした子どもの気づきへの共感・感動を、どこかに込めてあげて欲しい…そう思います。

知りたがる・わかりたがるのは、外界との関係に安心感を得ようとする行為…ある人の言葉を聞いてなるほどと思いました。確かな足場が築けるから、その上にまた手を掛けようとするのですね。

行事も毎日も、もっともっと「深化」させていきたい…
活動が充実する季節…流れるひつじ雲に思いを広げました。

(平成28年10月号「園だより」より)

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