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師走の訪問者

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私ごとで恐縮ですが、師走に入った途端に体調を崩す中、押し寄せる年末のスケジュールを何とかこなし、ヨレヨレになって、ようやく辿り着いた年末。

「食う、寝る、遊ぶ」…こんなシンプルな毎日を、ただただ送りたいだけなのに、その裏側で、小難しい顔をした大人たちが顔を付き合わせ、なんと複雑な手続きを動かしていくのだろう…世の中って本当に不思議でなりません。

そうした中、先日の餅つきは、餅米を蒸すカマドの火を炊きながら、やっと我に返れたような…入れ替わり立ち替わり、そこを訪れる子どもたちの問いかけに応じるうちに、少しずつ元気を取り戻していくことを感じた時間でした。

何をやっているのか、どうして火を燃やすのか、銀色に光る入れ物は何なのか、釜やセイロには何が入っているのか、訪れる子どもたちそれぞれの興味は、驚くほど尽きません。餅つきとの繋がりに、少しでも気づいてもらおうと、もち米と普通のお米(うるち米)を手に取れるよう並べて置いてみたり、蓋をとって中身を見せたり。そうしていると、何歳であっても必ず、見事なまでに、その子なりの関心に応じて、五感を使い何かを確かめようと真剣に迫ってきます。この湧き上がるような好奇心。教えられる以上に、自ら知ろう、学ぼうとする存在…それこそがやはり、子どもなのだと思うのです。(それを引き出すには、物や人といった周囲の環境=仕掛けが大事なのですが。)

さて、この一年、利用者の方々には気づきにくい部分で、実は様々な動きのあった年でした。

春には、社会福祉法や保育制度に大きな改正があり、vv弱小法人としては、その激変の波を乗り越えるための体制作りに追われました。

また、来年度に実施される10年に一度の大きな教育関連の法改正を見据えながら、今後の保育内容をもう一度自らに問い直してみる一年でもあったようにも思います。これは、これからの園生活や活動の様子を見守っていただく中で、実感してもらえるように、私たちが頑張っていかねばなりません。

そして、園長として、保育者の研修会や保育者養成校で話をさせられていただいたり、専門誌の原稿を書かされせていただいたり、園内の実践やその考え方を、対外的に発信する機会が、なぜだか多い年でした。少し億劫な仕事でもあるのですが、そのおかげで、考えを整理できたり、新たな気づきがあったり、脳内の老化防止になったり…人に伝えようとすることは、自分自身が学ぶことになることを改めて実感しました。

その中で、とある大学からは、「20年後の社会モデル」というお題で何かを話せと…ニュータウン片隅、子どもの居場所に身を寄せる私になんと無茶な。それはちょうど目の前の子どもたちが、成人式を越えた頃だなと、その大きくなった姿を想像した時、ある思いを抱きました。

「コドモとオトナの境目は、一体どこにあるのだろう…」かと。

その頃の彼らを、私はオトナと感じるのだろうか、そもそも、私、そしてこれをお読みになっているみなさんは、いつ頃からオトナになったと感じたのかと。

もし何か一つ、コドモとオトナの違いをあげるとするならば、「育てる」という役割を少しずつ背負っていくのが、オトナと呼ばれる者の宿命でしょうか。それは、コドモと呼ばれる人に対してだけでなく、後輩や同僚、友人…そして周囲のみんなに…何らかの気づきや刺激を与え、憧れを抱かれる存在…それがオトナ。同時にそうしたオトナも、何かから学びを得ながら、育てられている存在でもあるはずです。

「育つ」というのは別の自分に変わっていくことです。何かから学びながら変容し続けるという点において、実はコドモとオトナの境目はないのかもしれません。育てる者が育った分だけ、育てられる者は育つ…とも言えますよね。

カマドの前を行き来しながら、貪欲に何かを知ろうとする姿は、本当に眩しい。でも、私たち大人だって、明日はまた、一味違った自分になろうとする姿は、やはりきっと、子どもに負けないくらい輝いている…それがもう、髪が白くなり始めた人であったとしても。

まもなく、年も変わっていきます。

(平成29年12月号 園だより「ひぐらし」より)

冬の気配を前に

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今年の芝生の種まきは、出遅れた秋雨前線や台風の到来と重なり、生育がもう一つだったのですが、これも致し方のないこと。朝晩の冷え込みに、このまま真冬に流れ込んでしまうのか…もう少し、秋を楽しみたい…そんな思いで芝生をオープンしました。

園内のそこここで、芋掘りをはじめとした、秋の味覚を楽しむ活動が点在する一方、お楽しみ会へ向け、様々な表現遊びが繰り広げられています。昨年とは、また一味違った新たな構成となりそうで…どうなることやら…でも、本番は、実は当日までのプロセス!、楽しんでいきましょう。

さて、年末に、園内の七不思議のひとつ…が存在しています。それは、なぜか、クリスマスイブでもない日時に、突然、サンタが来園してくれることです。子どもたちは、目の前のプレゼントに目が眩むのか、これを素直に受け入れてしまうのですが、私たち職員は騙されません。これは何かがおかしい…ここ数年、この謎について、みんなで頭を悩ませ続けてきた結果、ついにその謎が解けたのです。

「あれは、偽物だったんだ!」

私たちは本当にお人好しでした。今年からは、もう偽物の侵入は許さない、そう決意して、12月24日の夜にやってくる本物のサンタだけを待つことにしました。

ただ、あいにく当日の夜は、みんなで出迎えることはできないのですが、翌朝にはきっと、プレゼントが…だとしたら、立ち寄った痕跡も何か残っているはず…それも、子どもたちと探してみたいと思っています。

今とちょうど正反対の夏の時期。保護者の皆さんに、お泊まり保育を企画していただきました。せっかく園内で一夜を過ごすということで、園舎で肝試しを楽しむのが恒例となっています。

誰もいなくなった2階の暗〜い部屋を巡るコース。かつては、見守り役も含め、私が物陰に隠れて、どこからともなくゆっくりとボールが転がってきたり、小さな物音が聞こえたり…手持ち無沙汰に任せて、そんな演出をしていました。

これは、脅かすというより、ん?何か変?…と不思議さを感じる程度に…そう、こだわったのは「気配」なのです。

ここ最近は、多くの職員たちが参加してくれるため、お化けが登場したり、効果音が入ったりと、賑やかな?「お化け屋敷」となっています。(みんなで楽しむものと考えれば、それはそれでいいのかもしれませんが。)

サンタの来園でこだわっていきたいことも、実はこの「気配」を感じること。
科学的に解明されたものが、目に見えるものだけが、その存在が認められ、「何かを感じた」くらいでは、一笑に付される今の時代。目を凝らせば見えるのかも、耳をすませば聞こえるのかも…もしかするといるのかも…そうした想いは、周りの世界を、そして毎日の生活を、情感溢れるものにしてくれる気がするのです。

そして「まだよくわからないもの」は、「畏れ」となって、私たちに謙虚さのようなものをもたらします。だから、五感を研ぎ澄まし、頭をフル回転させて、感じよう、知ろうとする。わかることの面白さのその一方で、何かよくわからないことが、さらに毎日を豊かにしてくれる…自分を取り囲む世界のそこかしこに、そういった未知なるものが潜んでいて、その一つ一つと巡り会っていく…それが、まさに子ども時代だと思うのです。

勝手にわかった気になっている私たち大人も、そんな謙虚さを、少しでも持ち合わせることができれば、刺激に満ちたあの頃に…戻れるのかもしれませんね。

そしてもう一つ、サンタ周辺の情報筋から、新たな情報が入ってきました!

「彼は、子どもたちそれぞれにではなく、クラスごとに、もっとビッグなプレゼントを考えているらしい。みんなのお願いを、よく相談しておいた方がいい。」

私は、「みんなのお願い」という表現に引っかかりました。もしかすると、これは、「モノ」である必要はないのではないか?
となると、ここからは発想力。サンタを少し困らせるようなプレゼント…お願いして…しまいましょうか。

(平成29年11月号 園だより「ひぐらし」より)

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先日の運動会、今年もあいにくの雨模様で、宮上小の体育館をお借りして実施した会でありました。

園長の日頃の行いが悪いのか、ここ10年ほどを振り返ると、それ以前と比べ、相当な確率で雨天に当たっているような気がします。今年の時期外れの秋雨前線、台風到来を考えても、地球規模で季節の変わり目も揺らいできているのかな…そう考えると、運動会どころか、それよりずっと不安にかられるのですが。

昨年も同じようなことを書いたように思うのですが、毎年のこの時期、園内の大人たちは、毎日、天気予報とにらめっこをしながら一喜一憂、運動会当日の雨天がほぼ確実となると、一様に肩を落とします。それでも、体育館での開催が終わるたびに、「これはこれでいいものだな。」と思うから不思議です。

もちろん青空のもと、大地を蹴って開放感を満喫する運動会が一番なのかもしれませんが、会場のみんなの気持ちが自然と中央に向く、お互いの心の動きが伝わってくる…そういう点では、体育館の方が一枚上手かなとも思います。会場のみんなの「気」のようなものが湧き上がり、それが四方の壁に封じ込められて…時間と共にどんどん充満し膨らんでいく…閉じられた空間には、そういった状態が起きやすいのかもしれませんね。

さて、日本の保育・教育は、伝統的にこういった「行事」を軸に組み立てられてきたという側面があるように思っています。それもどちらかというと、「集団的に表現する場」として成立しているようです。これは本来、特に乳幼児期の場合、「披露したい」「共感してもらいたい」という、子ども自身の自発的な思いが前提となるべきもので、個々の発達や個性に応じて、その程度は様々なはず。まずは自身が夢中になる段階、家族や友だちなど、身近な人に共感を求める段階、いずれ大勢に披露したくなる段階などなど。大切なことは、先を急がず、その時々のステージを十分に経験することなのですが、運動会などの行事は、ともするとこういった個別的な発達や関心を丸ごと押し流してしまう…そんな危うさも合わせ持っている気がします。

実は私たちも、そういった悩ましさや難しさと向き合いながら、行事の内容を少しずつ変容させて来ており、かぜグループの「得意だ走」も、そのわかりやすい工夫の一例かもしれません。ただ、これは運動会でなくてもいいのかなと考えてみたり、0〜2歳児の行事への関わり方も、子ども自身の発達段階を考えると、再考の余地はありそうですし…行事の変容はまだまだ途上です。

そして、12月にはまた、「お楽しみ会」が控えています。運動会が「運動遊び」だとしたら、こちらは「イメージ遊び」、少し強引に言えば、前者が外遊び、後者が室内遊び…でも、それぞれにダンスがあったり、けん玉があったり…いずれにせよ、子どもの自発性や個々の発達に考えを及ぼすほど、それを区別することの必要性もどんどん怪しくなります。

子どもたち一人一人異なるはずの充実感や満足感、見せたいという共感意欲。そうしたものと、画一的な集団性に陥りやすい行事というものを、少しでも高い次元でつなげていきたい…そう願いながら、今年のお楽しみ会も、そのスタイルの変容に挑んでいこうと考えています。

一人一人の毎日こそが大事にされる、成果よりも、活動途中に遭遇した個々に異なる経験が大事にされる…それを目指す時、見せる場としての行事とは、一体どんな意味を持つのだろう…そう問い続ける中で、確かに…「これもいい」と感じた瞬間が、あの運動会にはありました。

きっとそれは、育ちつつある目の前の子どもの姿を、その背後にある園が大事にしようとしているものを、あの場のみんなで共有できた…そんな一瞬があったからなのかもしれません。
私はここに一つの、これからの行事の持つ意味と、目指すべき方向が見えるような気がします。

それは、「園の文化を確かめ合う」場、別の言い方をすると「子どもたちの表現を通して、日々の暮らしぶり(活動のプロセス)に思いを寄せる」場…。

そこを一緒に…目指してみませんか。

(平成29年10月号 園だより「ひぐらし」より)

エースもねらえ

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8月からの天候不順で、この夏の芝生も生育不順。はらっぱになりきれないまま、10月の運動会を迎えそうです。

園内では、今年度から「研究保育」というものを始めています。これは、順番に各クラスの保育活動を、職員間で見合いながら、その内容を振り返り、語り合って深めていこうという取り組みです。またそれが、私たちの独りよがりにならないよう、外部講師も招くことで、客観的な視点も取り込むようにしています。

先日も、3〜5歳児保育を観察し、協議の場(カンファレンス)を持ちました。

当日、子どもたち個々の言葉に丁寧に応じながら、活動全体を進めていく保育者の姿に、私は、十人の言葉を同時に聞きとったと言われる、あの聖徳太子のお姿を重ねながら、見入っていたのですが、その後のカンファレンスでもそのことが話題に上りました。

私たちは、相手の言葉を聞くことで、その考えや思いを知ることができるのですが、反対に、自分の行動の意味をいちいち周囲に説明するものでもないので、他人はその行動の意味を勝手に想像しているものです。

そして、相手が子どもともなると、安易にその行動の意味を決めつけるか、子どもだから意味もないのだろう、と片付ける傾向が強くなるようにも感じます。
だからこそ私たちは、その子の本当の心情は何かを、慎重に洞察していく必要があるのですが、園内のある保育者が「子どもに問いかける」という実践を語ってくれました。

それは、「わからないのなら、本人に問うてみる」という、ある意味当たり前のことなのですが、これを意識的に実践してみると、こちらの想像を超えた答えが返ってくることに気づいたそうです。さらには、わかっているつもりのことでも、あえて問うてみると、実は違う思いを抱いて遊んでいたこともあったとか。子どもの思考を掴むための、簡単だけれど、大事な方法だと気づかされる話です。

「まずは聞くこと」は大事なのですが、それにどう「返す」のかということは、これもまた重要で、さらに難しいことだなぁと、つくづく思います。

子どもの言葉に、何をどう返すべきなのか…「少し考えるから、夕方まで待ってね。」なんて言えない…一瞬で判断し、反射的に返していく行為…まさにこれは真剣勝負。的確で完璧な返しなんて、ポンポンと繰り出せるものじゃない…だから…何度だって振り返る……研究保育だってする…学び続ける…私たち大人だって。

保育者たちが書き込んだ様々な記録や書類は、立場上、私の手元を通っていきます。仕事とはいえ、それぞれが思いを込めたものならばこそ、私も何かコメントを返したくなります…保育の質が、応答の質というならば、私の仕事にだって、この返しの質が問われていることをいつも感じます。

見方を変えれば、会話とはコメントの付け合い、その応酬。かつて、テレビでも見かける某教育学者の「コメント力」という本がヒットしましたが、パッと、何をどう返すのかにも力量が問われるということなのですね。

「どうだった?」も、相当のコメント力が問われる質問です(なので、子どもに対しては慎重に使うべき問い方ですが)。

「旅行、どうだった?」「あの映画、どうだった?」さらには「昨日、どうだった?」といった乱暴なサービスに、どんなリターンを打ち返すのか。そこそこ手短に、かといって「楽しかった」では済まされない…ある種の緊迫感も漂います。自分は何に心動かされたのか…その感性自体が問われているからです。

どうだった?…自分を棚に上げ、心を鬼にして、心で泣きながら…今日も職員たちに投げ掛ける…大好きな言葉です。

(平成29年9月号 園だより「ひぐらし」より)

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梅雨に逆戻りしたような長雨。子どもたちには、少し欲求不満の夏でしょうか。

保育・教育界では、様々な研修が開催されていく季節でもあります。中でも、少し視野を広げて考えてみるような、少し掘り下げてみるような、すぐに答えが出せないような…そんな講座、講義、セミナーなども増えるような気がします。じっと思いを巡らすには、この長雨も悪くない…とまでは思わないのですが、なぜか今年は、ことさら印象的な「言葉」を私の中に残している…夏であります。

もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日しようとしていることを、私はしたいだろうか?

某多国籍企業創設者の有名なスピーチの一説ですが、この夏のある講演での引用を改めて聴きながら、「したい」という言葉を「すべきこと」に置き換えて自問した言葉でした。どうして人は、こんなシンプルな考え方で、ためらうことなく行動ができないのでしょうか。そして、
「今日しようとしていることを、子どもたちはしたい(すべき)だろうか?」とさらに自問は続くのでした。

私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ。

この夏に見た映画の中で、主人公が語っていたセリフ。こんな風に考えると、巻き起こる毎日の出来事に、誠実に向き合えるのかも…そう思いませんか?

自分は大人なんだ、という思いで行動するのが子ども。ただ、大人から与えられたものを、まだうまく使いこなせないのだけれど、それでも、それぞれの年齢の中のマックスで…大人。

著名な脚本家の言葉(一言一句、この通りではなかったかも。こうした人の話が聞けるのも、夏ならでは)。
10歳の小学生たちの学校生活を、大人だけで演じる舞台作品を作るにあたり、実際の小学校生活を見学した際に感じたこと…なのだそうですが…この感性と脚本家ならではの表現力に脱帽しました。

「大人から与えられたもの」とは、大人側の期待やそれに応えるための技術、そして大人によって作られた今の状況や社会環境などを指すのだと、私は思いました。与えられた状況に、与えられたものを自分なりに駆使しても、まだまだうまく立ち回れないけれど、それぞれの育ちの中で獲得した「経験や能力」の範囲の中で、精一杯大人であろうとしている…そんな子ども観なのだと思うのです。

これは、幼児期の子どもたちの「ごっこ遊び」にも、顕著に現れる姿です。お父さんやお母さん、運転手、お姫様、正義のヒーローなど、ごっこの中の子どもたちは、自分の憧れ、理想の姿を演じようとします。現実の世界の自分とは打って変わって、ごっこの世界では、「です・ます」を使ってルールを説き、極めて道徳的に行動しようとします。ちょっと背伸びをし、精一杯、社会的な期待に応えようとする姿が、そこにはあるように思います。

それにしても、子どもと大人の境界は、一体どこにあるのでしょうか。その時々の自分の力の範囲の中で、精一杯大人であろうとする姿は、幾つになっても終わりがないことのような気がします。
年齢を重ねることが、たまたま「親」になったことが、イコール「大人」であることでもなく…「よき大人とは?」と問い直しながら、少し、背伸びを続けること…子どもたちに、見習わなければいけませんね。

モノが欲しいのではない。『遊び』が欲しいだけ。

これは、あるおもちゃ研究家の言葉でした。他の子が遊んでいるおもちゃを、せっかく奪い取ったのに、早々にそれを放って別の遊びへ…1・2歳くらいの子どもたちによく見られる光景です。
つまり、楽しそうな様子に魅かれて、その「楽しさ」を奪い、手に入れたつもりが、おもちゃ自体に「楽しさ」がある訳ではなかった…ということなのです。そこで、「楽しさとは何か」の体験をサポートしていく大人の存在が重要になってくる、ということなのですね。

さてみなさん、本当に欲しいものは…今その手の中に…あるものですか。

(平成29年8月号 園だより「ひぐらし」より)

遅まきのひまわり

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気づかぬ間に梅雨は明けていたようで、本格的な夏空の下、水遊び中心の毎日が始まっています。

今年の6、7月…園長として、例年にはないくらいのせわしなさの中で、頭をパンパンにしながら過ごしていたからでしょうか、ある夜、布団の中で、「あっ!」と声をあげました。それは、とある園長から、「種を増やして収穫してね。」と、ひまわりの種をもらっていたことを思い出したから。(これは、「福島とみんなをつなぐ、ひまわりプロジェクト」という活動。http://himawariproject.com/whats.html)

怠け者の園長は、それを誰かに撒いてもらおうと、何の説明もせず、S木主任のデスクにとりあえず置きっ放しにしていたのです…それも2週間くらい前に。そのひまわりの種は、不思議な事に、真っ青に染色されているため、「なにこれ、気持ち悪い…。」と捨てられてやしないかと、なおさら心配になったのでした。

「ああ、これですね。」

翌朝一番に声を掛けると、ちゃあんと保管をしてくれていた、マジメな彼女。「何だろうと思っていたんですよ。」と言いながら、ひと仕事を請け負ってくれました。
とりあえず、安堵した無責任な園長は、また忙しくも虚しい雑務へと、舞い戻っていったのでした。

Blog IMG 0211そして、他園から施設見学者を迎えたある日。階段の掲示板を眺めながら一向を案内をしている時…一つの活動写真に、ふと目が止まりました。
なっなんと、それは、あの青いひまわりの種!しかも、あの昔から親しまれている絵本「そらいろのたね」を絡めながら、子どもたち共に「ひまわりプロジェクト」を進める様子が語られている…まさかこんな展開になっていたとは…

その後の種の行く末のことなど、またしてもすっかり忘れていた不届きな園長は、多少の後ろめたさを感じながら、少し動揺しておりました。興味深げに掲示物に見入る見学者に、それを悟られないよう「青いひまわりの種をもらいましてねぇ…」と平静を装いながら、先へと歩みを進めました。

たまたま、私に託されたひまわりの種。忙しさにかまけて、すっかり人任せにしていた事もどうかと思うのですが、そのおかげで?、人知れず、園内の片隅に撒かれるだけの運命だったひまわりが、私の想像を超えた道を歩んでいたのでありました。

保育活動とは、きっとこうした偶然が重なり合って生まれているものだと、改めて思います。様々な人や物が行き交い、色々な出来事が交錯する園内で、何が拾われて、何が見逃されていIMG 2035るのか…神のみぞ知ることなのかも知れませんが、たまたま拾われた偶然を、子どもたちの新たな経験へと結びつけていく保育者たち。そこに、何らかの意味と期待を込め、子どもたちの前に再提示された時、ただの偶然と思われた出来事が、経験すべき「必然」へと生まれ変わる瞬間が訪れるような気がします。

子ども、そして人が育つために、絶対に必要な経験とは何であるのか…森羅万象に満ち溢れるこの世界から、それを選び出し、優先順位を付けることは難しいことです。それよりも、たまたま出食わした出来事を、価値ある経験へと位置づけてくれる人、そういう人と巡り会うことの方が、ずっと重要なことだと思うのです。

ただ、その巡り会いもまた、偶然の産物。となれば、自分は、子どもたちにとって、巡り会う価値のある大人になり得ているのか…自問自答は続いていきます。

ただ、今言えることは、種との出会い一つに、これだけ心乱されているようでは…まだまだ…ということでしょうか。

(平成29年7月号 園だより「ひぐらし」より)

幽体離脱という育ち

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梅雨の時期を迎えました。
梅雨の語源は諸説あるようですが、これを「つゆ」との読み変えた先人の感性に脱帽です。

そして日本では、田植えを告げる季節でしょうか。バケツとはいえ、初めて、米作りに挑戦するかぜグループの子どもたちも、小さな小さな苗の芽吹きに今、心踊らせている…そんな話を担任から聞きました。

私にとって、担任たちの思いに耳を傾ける機会は、会話の他、文字を通した保育の記録があります。そこで一緒に考えたり、私自身、学ぶことがとても多いような気がしています。

そうした記録の中の、とある一節をご紹介します。

まだまだ、遊具や道具の使い方・片付け方が未熟な3歳児。それを見咎めた5歳児たちが、

5歳児たち「いけないんだぁ。」
保育者「優しく教えてあげて。」
5歳児たち「それは先生に聞いてから出すんだよ。」「使い方が違うよ。」

などと言葉を変えていく姿、またそれを受け入れていく3歳児の姿に、子ども同士の関わり合いの重要性を感じた、という内容でした。

「優しく言って」ではなく、「教えて」という言葉を選んだ保育者の意図に、見事に応じた姿は、さすが5歳児ですね。
これがもう少し幼い子ならば、ただ柔らかい語調に変えるとか、「先生が言ってたでしょ!」となりかねない所ですが、相手が「何をわかっていないのか」を考える力があるからこそ、「方法を伝える」言葉が出てきたのではないでしょうか。
これは「相手の立場に立って」考える力とも言えます。「他者視点の獲得」とも言われるこういった育ちは、就学前の乳幼児期に飛躍的に身につけていく力で、私たち大人も「成長したなぁ」と実感するポイントの一つですよね。

もう少し詳しく説明すると、3歳くらいまでは、「嬉しい」「悲しい」といった他者の「単純な」感情を、そして4歳以降からは、感情の「状態」や「背景」、他者の「立場」や「考え」なども、徐々に理解していくと言われています。
先ほどの年長さんたちは、まさに3歳児の立場(まだ新しい環境に不慣れなこと、理解力がまだ乏しいことなど)を想定しながら、言葉を選んでいるように見えます。まさに「教える」とは、こういうことですよね。

こうした力は、日々のぶつかり合いや共感など様々な関わり合いを通して、表情や声、体の動きなどを手がかりに推測し、少しずつ獲得していくのですが、実は、運動神経や手先の器用さ、音感などと同じように、これにも得手不得手があることを忘れないようにしたいものです。年齢を挙げたのは一つの目安。もちろん、サポートが必要な場合もありますが、結果として、それぞれのペースで育っていけばいいのだと、私は思っています。

それにしても、自我を離れ、他者の視点や思いの中に滑り込んでいくこの劇的な飛躍を、生まれてわずか数年の間に遂げていく凄さに、単純な私は、バカみたいに感動してしまうのです。

一方、他者の思いに気づくのは、同時に、自分という存在(自我)をしっかりと形作っていくからです。0〜2歳くらいの子どもたちは、まさにこれを頑張っている真っ最中。ここを育てるには、「自分の思いは他者に共感された。自分は認めてもらえた。」という経験が軸になります。そのためには、ご家庭も含めた私たち大人の役割が大きく影響しますね。

先の5歳児のエピソードの土台は、実はこの0〜2歳期にあることもぜひ、心に止めておいて欲しいと思っています。

さて、3〜5歳児の記録をもう一つ。
かぜグループでも、意図的に「朝の会」を設定しない日があります。そうしたある日、製作コーナーで物作りに取り組むひとりが、

「今日はずっとここにいていいの?こういう日、大好き!」

まさに、この思いを受け止めるための設定であっただけに、この保育者は、ある種の手応えと共にこの言葉を拾ってくれました。

と同時に、「朝の会」を通し、他者の言葉や思いを聞き合うことから、別の世界とも出会わせていきたい…、
「こういう日も大好き!」
と言わせたい…そんな闘志?も密かに燃やしているのでは…そんな勝手な想像を膨らませながら、読み入っていました。

(平成29年6月号 園だより「ひぐらし」より)

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きらきらと光る新緑、そして木漏れ日が映し出す影との力強いコントラストは、さあ進めと、私たちに生きるエネルギーを与えてくれているようです。

先日の懇談会後の午後、親父の会の面々によって、園内の畑の畝づくりが行われました。

まずは雑草取りから始まるのですが、なんとその中に、冬に収穫しそびれ、見事、越冬を果たした立派なほうれん草の一群を発見。それはそっと取り分けておいて、いよいよ硬くなった土の掘り起こし、そして耕作へと入ります。

一昨年の増築による畑の移動で、新たな「開墾」を余儀なくされ、親父たちを苦しめた昨年度。今年は多少は耕しやすくはなっていたのですが、それでもひと冬を放っておいた土を畑に戻すのは、かなりの労力です。それに、まだまだ除ききれていない石や増築時のガラが残っていて、それを除去しながらの作業は、まだまだ、親父たちの手をわずらわせるものでした。

この辺りの土は粘土質が多いのか、鋤(すき)がコツンと石に当たったのかと掘り起こしてみると、硬くしまった土の塊なんていうことが頻繁にあります。

農作物に詳しい親父さんの一人によると、トウモロコシを植えれば、根っこがそれを砕いてくれるとのこと。なるほど、だから開墾された、かの北の大地では、たくさんのトウモロコシが育てられているのかも。芋虫(幼虫)の多い土では根が食われる…なので虫の嫌う石灰を多めに入れ、石の多い土では、それを避けて育つ根菜は形が歪む、土を細かくすればするほど、水持ちが良い…。

皆で汗を流しながら、こういったことを教えてもらっていると、足下の土の中で根や虫や水や肥料が、戦い蠢きあっている映像がだんだんと頭に浮かんで来るもので、そういった目に見えない地中を語れるこの親父さんはすごい…と聞き入ってしまいました。

IMG 2196そして「土」と戯れた次は…「水」でしょう…ということで、翌日の日曜日は、海へ魚釣りに出かけてみました。

春の風を切って漕ぎ出た大海原、そのど真ん中で、針に生き餌に通すことに孤軍奮闘する海の男が一人。その姿に技量を見とった船長が、手取り足取り、面倒を見てくれました。

海釣りをしたことのある方はご存知だと思いますが、海の釣りでは、針の少し手前に、小エビや魚のミンチを入れた小さなカゴを付けて、それで魚を誘う釣り方があります。なので、ぐいっと一瞬強く竿を強く揺らし、そのカゴの中の餌を海中で散らすのですが、「ダメダメ、それじゃ散らないよ」と船長。どうして見えない海中の様子がわかるのか…不思議に思いながら手ほどきを受けるのです。

さらに、「海底から2メートルくらいにいるから、少し巻き上げて…」と確信に満ちたな言葉に…ギョギョッ!どうしてそれがわかるのですか!…さすがにこれは、魚群探知機で見ているのですね。それでも、船長の話を聞くうちに、カゴから散る撒き餌に、夢中になって集まる魚の群れを…感じて来るのでした。

見えないものを見る人…この船長も、私にすればすごい人です。きっとこれが、専門家と言われる条件なのかもしれませんが、その言葉に耳を傾けているうちに、私にも見える気がしてきたのは、その時、私も懸命に「見よう」としていたからなのかもしれませんね。

太公望曰く、魚は「釣れる」のではなく、己の腕で「釣る」ものなり。もの言わぬ子どもの心情もまた、「見えない」のではなく「見よう」としない己を、まず疑ってみるものなのかもしれません。

先の畑作業、それが終盤に差し掛かった頃、みるみる空が暗くなり、突然のにわか雨に襲われました。想定外の雨…今日のメンバーには、「空」を見ることのできる親父はいなかったようで…こんな時のスマホの雨レーダーでは、雨雲は小一時間で通り過ぎる模様。

ならばと、テラスの子どもキッチンで、冬越しのほうれん草を炒めながら待つことに…これもまた、よきかな。

親父たちに深謝。

(平成29年5月号 園だより「ひぐらし」より)

 

 

乗り越えて行け

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桜の満開よりひと足先に、園庭の花々が、新年度を彩ってくれました。

そして…ようこそ!誠美保育園へ、新しいクラスへ。お待ちしておりました。

入園、進級それぞれに期待と不安が入り混じるこの時期。入園されるご家庭にとっては、一層その思いが強いのではないでしょうか。
子どもは環境の変化に敏感ですが、その分、順応性もずっと高いものです。これを「柔軟な心」と言ってしまえば、それまでなのですが、きっとそれは、子どもならではの、「素直」に感情を表現できる力のおかげだと思っています。

思いっきり泣いて、笑って、怒って、ちょっとしたことで不機嫌になったかと思ったら、突然機嫌を直したり。そういうことが、十分に許される環境があるからこそなのかもしれません。これも大事な「自己表現」。周囲の大人たちがそれを、「そうなんだね。」と、丁寧に受け止めていくことで、少しずつ乗り越えていくのだろうなと思うのです。

その一方で、そんな荒っぽい感情表現ができない?許されない?大人の方が、実は、ずっと大変なのかもしれません。

大笑いは大いに結構なのですが、大の大人が突然、激しく泣いたり、怒ったり…確かに、周囲も戸惑うのかもしれませんが、伊達に年を重ねてきたわけではない大人たちには、「言葉」という、うまい道具があります。不安な気持ちは、素直に「不安なんだ」と、言葉でその心細さを伝えてよいのだと思います。

しかし、これまた伊達に年を重ねてしまった私たちは、この「素直」が意外に苦手です。気遣いという奥ゆかしさ、そして、人に認められたいという焦りや、時には大切なはずのプライドさえも…素直になることを邪魔するのです。

そして、「不安」な気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをするうちに、それはやがて、周囲への不信感や非難へと形を変え、表現されてしまうものなのです。

不安を乗り越えるために、大人だって、素直に「自己表現」していいのです。ただ、大人の場合、先のような様々な雑念を乗り越えて、本当の自分の不安感や辛さに辿り着いて向き合って、ようやくそれを言葉にできる…そうした本物の強さと勇気に敬意を払いながら、私たちなりにそれを精一杯受け止め、未熟ながら一緒に考えていきたい…そう思っています。

受け止める力、受け止めてもらう力、親になっていくことは…名実共に大人になっていくことは…本当に大変で…いつも途上で…気づきの連続で…だからちょっと…面白い。

子どもに、保護者に、地域に、そして私たち職員に…それぞれにとって心地よい居場所となるように
それが「ここ」の理念です。

自分の存在が位置付いている、認められていると感じた時、人はそこを居場所と感じます。反対に、他者を認めていく、位置付けていくのもまた、その場にいる人たちです。それを皆さんと本気で作り上げようとしているのが「ここ」です。

自分の居場所の数だけ「幸せ」の数も増えていく…そんなことを…一緒に信じていきませんか。

(平成29年4月号 園だより「ひぐらし」より)

新年度、気持ちも新たに園だよりの誌名を「誠美だより」から「ひぐらし」と改名をした。

漢字にすると「蜩」…ではなく、「日暮らし」。
「暮らし」という言葉は、日々の苦楽や、それを乗り越えるための知恵や努力、そして、それらに醸成された文化をも含み込んでいるように私には感じられる。

  今に夢中な「その日暮らし」
  いつかに思いを馳せる「あの日暮らし」
  今日こそはと挑む「この日暮らし」

 子どもにも大人にも…それぞれの暮らし…営みが積み重なっていく場を目指して、そして蜩(ヒグラシ)が鳴き出す夕刻まで、夢中になって遊んだ…あの子ども時代への仄かなノスタルジーと、そんな思いなど越えて行けという…今を生きる子どもたちへのエールを込めて。

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