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紅い実の真実

 先日の少し暖かな雲ひとつない小春日和の日、にじぐみ(1歳児クラス)のお散歩のあとを追いました。この日は、職員間で他クラスの保育を観察した後に、語り合う研究保育の日。今回の対象クラスがにじぐみだったのでした。

 二つのグループに別れて、それぞれが別の公園を目指すようで、玄関前に集合する先発隊に近寄っていくと、ひとりの子が、少しきつめのズボンのポケットに手を突っ込み、ごそごそと何かを取り出して、そっと私に差し出してきました。

 手の平の上には、グリーンピースよりひと回り小さい、数粒の真っ赤な木の実。その鮮やかな発色に見とれながら、これをくれるのかなと次の言葉を待っていると、何やら呟きながら、ぎこちない手つきで、また自分のポケットに戻してしまったのでした。

 これから、園外に出かけるというのに、園庭では見かけないその紅い実を、どこで手に入れたのだろうか、登園する途中で拾ってきたのだろうか、そんなことに思いを巡らすうちに、出発の声が掛かかりました。

 園外に出た途端、まず最初に数人の子の心を捉えたのが、駐車場の銀色の支柱。私には、彼らにも見慣れたものと思っていたのですが、首を横に傾けて別の角度から眺めたり、撫でたり叩いたり、ぶら下がっている金具を揺らして音を鳴らしてみたり。

 出だしからこれでは…公園までの道のりは、果てしなく遠い…でもこれが、この子たちのお散歩の意味なのです。歩行が安定してくるこの1歳から2歳にかけて、思うがままの移動が可能になっていく。見たいもの、知りたいものに自由にアクセスして、自分の生まれたこの世界が、どんなところなのかを確かめていく時期なのです。その分怪我も増えるし、大人たちは少しヒヤヒヤするのですが…今こそが辛抱の時。

 あの公園へ行こうなんて言いながら、実は道中全体が目的地。それに個々に応じて、興味や楽しみ方、ペースも違うので、むやみに手を繋がせ、行進のように移動させるようなことはありません。必要もなくそれを強いることは、自由を奪うある種の拘束のようにも感じます。つなぎたいと思うから手をつなぐ…それは子どもも同じです。 

 二手に別れたグループを、行ったり来たりしていた私に、一緒に観察に参加していた外部講師の先生が、「園長先生はどこ?って聞いてくる子がいましたよ。」と教えてくれました。

 言葉もおぼつかず、まだまだ我が身のことだけに精一杯にも見える子どもたちなのですが、今日はいつもと様子が違うことを、ちゃんと理解していることがわかります。友だちと自分、大人と自分、子ども同士、恐ろしいことに、大人同士の関係性にも関心の眼差しを向け始めているのです。

 こうして、モノとの関係性、ヒトとの関係性への関心を、急激に広げ始めているからこそ、それに大きく心揺さぶられた結果、新たなトラブル(怪我や諍いなど)に巻き込まれてしまうのも、この歳でならではの育ちなのです。そこかしこに巻き起こる衝突や葛藤。そこを身近な大人に、一つ一つ根気よく付き合ってもらいながら、それぞれとの関係を丁寧に紡いでもらうことで、自分の立つ場所というものを、確かなものとしていくのです。

 道中、さらに歩みを進めるうちに、何人かが植え込みに足を止め、そこを何やら手でかき分けている姿が目に入りました。その時、みんなが探していたもの…それこそが、あの紅い実だったのです。

 そして鈍感な私も、ようやく気づいたのでした。出がけに、木の実を見せてくれた子は、「この実を探しに行くんだよ」と伝えようとしていたのではないかと。

 子どもが意味を理解している言葉(理解言語)に比べて、使うことのできる言葉(表出言語)はずっと少ないと言われています。これはきっと言葉に限ったことではなく、周囲の状況にじっと目と耳を凝らしながら、語れることの何十倍もの思いを、心に刻み込んでいくのです。

 それがこの世に生を受け、わずか2年ほどの子どもたちの、真の姿なのだと思うのです。

(令和元年12月号 園だより「ひぐらし」より)

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