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園長保育

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初夏の爽やかな風が、園庭を駆け抜けていきます。歳のせいか、真夏のあの湿った空気にいつ入れ替わってしまうのだろう、と少し先を案じている自分こそ、「その日暮らし」がなっていない。季節を問わず、毎日のように園庭に飛び出していく子どもたちにまた、教えられています。

最近、4・5歳児クラスの保育をゆっくりと観察する機会がありました。当園ではこれを、研究保育と呼んでいます。活動終了後には、そのクラス担任と観察した職員、そして、外部から招いた保育の研究者にも参加していただき、この日の保育の意味を検証し、ディスカッションする時間を設けています。

その日は、小麦粉粘土にまつわる活動が繰り広げられていました。子どもたちが、過去に経験したスライムや紙粘土に、とても興味を持っていたことから、このひと月、小麦粉粘土遊びを幾度となく楽しんできたことや、その中で、感触やその可塑性(形を自由に変えることができること)を楽しみ、小麦粉と水の調合を通して、状態や色の変化に関心を持ち、計量することを通して、多い・少ないの先にある、測ることの意味に気づき始めている…といったことが、事前に担任から配られた資料に綴られていました。

今回の活動の中に、小麦粉と水の調合を、自分たちで試行錯誤してみる、というねらいがありました。うまく配合のバランスが取れたグループは、見事に粘土遊びに突入できるのですが、水を入れ過ぎたグループは、白濁した水溶液に…。

しかし、実はここからが見ものでした。水溶状になってしまった一群は、担任に訴えるわけでも、それを嘆くわけでも、諦めて全く別の遊びに移るわけでもなく、目の前のボウルの中で揺れる液体に吸い込まれるように、あっという間に、色水遊びに没入していったのでした。そう、失敗こそがスタートだったのです。

色を足して変化を楽しむ者、水を足して量の増減を楽しむ者(メートルとかグラムとか、どこかで見聞きしたのであろう勝手な単位で、量を表現していました。)、小麦粉混じりの粘度のある水であるため、ストローでブクブクと吹いた泡が消えない様子が、また面白いようで。担任が用意していた、様々な素材や道具を持ち出して、会話で情報を交わしながら夢中になっていく子どもたち。
これは、水遊びを楽しんでいるようでいて、実は水の性質を確かめている行為でもあるのです。(これを探索的な活動と呼んだりします。)楽しさの根底には、常に発見があることがよくわかる場面ですね。(この背景には、活動中の子どもたちの様子に応じながら、活動の方向性に刻々と修正を加えていく、担任の判断がありました。)

そして、隣の子の面白そうな行為や、遠くの声を聴き合い、それを真似て取り入れ、影響し合っていくことで、活動への熱気が部屋に充満していくようでした。これが、それぞれの発見や成果を共有し、学び合っている、ひとつの姿なのだと思います。
また、それらの行為や子どもたちの言葉の中に、これまでの経験や、ここ数週間で得た小さな知識が、たくさん散りばめられていることにも気づきました。

同じ遊びに取り組んでいても、それぞれに違う経験があることにこそ、意味がある…それが集団活動の本質のような気がします。

最後に、もうひとつ印象的な場面に出会いました。それは、片付けの場面。たくさんの道具や粉と水で汚れた部屋を、むしろ遊んでいたときよりも真剣な顔つきで、洗って、掃いて、雑巾をかけて…その黙々と取り組む姿に、私は思わず「楽しいの?」と声を掛けたほど。

片付けによってさっぱりとする感覚、部屋の状態が変化していくさま、そして道具を使いこなしながら、それを自分の力で実現できるという有能感…自分を使ってみたい、という思いが伝わってきました。これが、この4〜5歳という年齢の育ちなのですね。

私たち大人は、これを遊びとは分けて捉えがちですが…自分の能力を使ってみる、確かめてみる、そして役立ててみる…という点で、子どもにとっては、遊びと何の違いもないのかもしれません。

遊びと仕事…私たちが、これを分けた日々を送るようになってしまったのは、いつの頃からだったでしょうか。

すると、せわしなく立ち働く子どもたちの向こう側で、壁際の椅子にちょこんと腰をおろし、みんなの様子をぼうっと眺めている、二人の子が目にとまりました。聞けば「休憩中」とのこと。周囲はそれを咎めることもなく、それならそれで仕方がないと、その行動を受け入れているように見えました。

等分であることが公平なことなのだと、私たちは、いつの頃から考えるようになってしまったのでしょうか。

この日もまた、子どもたちに教えられ、大人たちと学び合い…私もみんなに育てられた…いい一日でした。

(平成30年5月号 園だより「ひぐらし」より)

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