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依頼人との関係

 このひと月あまりの間、容器(ポット)の中で育ててきた芝苗を、とり(5歳児)の子どもたちと一緒に、芝の薄くなった箇所に植えていきました。実は、ひと月前に、ポットに苗を植えてくれたのも、とりの子どもたち。

 円筒状の特殊な道具を地面に刺して抜くと、ちょうど大判焼きのような形で、ポコっと土が抜けて、穴が空きます。そこに、子どもたちが、苗を埋め込んでいくという作業になるのです。

 まず最初に、大人が穴あけした後に残ったこの大判焼きを、バケツに拾い集めます。そして、ブルーシートの上に並んでいる苗をそっと掴むと、穴を探して園庭を駆け回りながら、それを埋めていくのです。その数、ざっと500個あまりなのですが、そこは流石のとりさん、穴は次々と苗で塞がれていきました。

 最後は、先ほど集めておいた大判焼き状の土の塊をほぐした土で、この一年で園庭にできた窪みを埋めて、全体の凹凸を減らしていくという、少し高度で…地味な作業。

 苗植えというメイン作業を終了した後なので、塊をほぐすのにも飽きて、すぐに人手がなくなってしまうかな…といった心配をよそに、意外にも…バケツから塊を取ってきては、パラパラと気長にほぐして…付き合ってくれた子どもたち。

 忍耐強く最後まで仕事をやりきった…私が感心したのは、そんなことではなくて、土の塊をほぐす感触を楽しんだり、それが落ちて積もる様子を観察したり、踏んで潰す方が効率のいいのではと気づいたり、塊を何かに見立てて呟いていたり、井戸端会議さながら、隣の子と口も盛んに動かしていたり…そうした自分なりの興味や関心、過ごし方をそれぞれに見つけながら、面白そうに作業に没頭している姿でした。

 5歳児ならではの思考と技術を駆使しながら、期待に応えたいという思いを下支えに、活動を維持していく姿に、少し逞しさを垣間見た気がしたのでした。

 さて先日、ニュース番組だったか、とある青年の日常を取材する映像に、なんとはなしにチャンネルを止めました。ナレーションから、彼が、仕事の依頼人と待ち合わせてしている場面であることが察せられたのですが、なんとそれは、依頼人のそばにただ寄り添うだけの「なんもしない人」という仕事だったのです。

 交通費などの実費以外の費用は発生しないそうなので、果たして仕事なのかといった疑問もありますが、そういった依頼人たちとの関わりを綴った本人のブログが、書籍化されたことでの取材のようでした。

 SNSを土台にした、こういった新しい生き方?は、私には、度肝を抜かれることばかりなのですが、その一方で、既存の価値観に縛られない発想やその行動力に、ある種の羨望のような思いがむくむくと湧き上がることもまた、否定できないのであります。(彼がお子さんもいる家庭人であることは、さらなる驚きでした。)

 番組で取材した時は、「野遊びに付き合って」という大学生の依頼。「いい年をして、ひとりっきりで、虫や花に夢中になっている姿が恥ずかしいから」との理由だったように記憶しています。

 そういった理由に納得するしないは別にして、「作り過ぎたケーキを食べて」「引っ越しを見送って」「離婚届の提出に立ち会って」といった依頼が引きも切らない様子に、息遣いを感じる距離で「誰かに見守られていたい」…そんな大人たちの願いが伝わってくるようで…これも現代社会の一つ姿であることを実感しました。

 この「なんもしない人」に興味の尽きない私は、こんな奇抜な行動をとる若者は、大きく心を震わせない、想像以上に飄々とした感性の持ち主に違いないと、勝手な想像を膨らませながら、彼のインタビュー記事に当たってみました。

 するとそこには、「どんな人と会えるのかというワクワク感」「思わずしてあげたくなる」「自分の行動や文章に反応してもらえる喜び」…そんな、私たちとなんら変わりのない、好奇心や衝動、共感してもらえる喜びに大きく心を揺らす、若者らしい言葉が並んでいて…それを見た私は、なぜかホッとしたのでした。紆余曲折を経て、彼なりの居場所を探し当てているのかもしれません。 

 ちょっと物足りないくらいの寂しさや、少し他人の視線が気になる程度の閉塞感…「なんもしない人」の元に集まる若者たちが感じる、ほんの少しの心地悪さ。それを「何もそんなことで」と私は笑い飛ばすことはできない。

 彼らの手前には私たちがいて、彼らの向こうには、子どもたちが繋がっているのだから。 

(令和元年7月号 園だより「ひぐらし」より)

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