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色の置き場所

 ここ数年、9月になると出かける場所があります。それは、子どもに関係する仕事に携わるものたちが、あれこれと語り合う、小さな集まり。花壇に揺れる色鮮やかな花々と、そこから仰ぎ見る空の雲の流れに、私にとって毎年、秋の始まりを感じる場所にもなっているのです。

 そこで、ある造形作家が子どもたちと絵画製作をした時の経験談を語ってくれました。

 それは、複数の子どもたちが、一畳ほどのひとつの大きな画面を囲み、手にした筆で、それぞれに自由に点や線、形を描き込んでいくという…いわゆる協同製作というものでした。

 自分の眼下、手の届くあたりから描き始めることにはなるのですが、それがどんどんと広がっていくと、いずれ他者の描画と、どこかでぶつかることになります。しかも、その製作活動には、気の向くままに立ち寄って誰でも筆を握ることが可能なので、人も入れ替わっていくのです。

 すると、始めのうちは、隙間を見つけて、そこに自分の色を入れるといった状況から、だんたんと他者の描画の上に、自分の色を被せ、それを塗り潰していくことになるのは当然の結果。

 するとその時、その作家が子どもたちに投げかけたという言葉が、実にいいのです。

 「前の絵がもっと素敵になるように描いてね。」

 また、下の色を覆い隠しかねない黒い絵の具を使う子には、

 「強い色だから、気をつけて使ってね。」

 私たち保育者には、少し思いつきにくい、素敵な伝え方に思わず唸りました。

 何の制約も受けずに、思うがままに筆を走らせる「発散するアート」もいいのですが、ここで行われていたのは、いわば「収斂するアート」。それを、「調整する力」と評した人もいました。

 描画領域を区分けるのではなく、相手の描画に分け入るように、その間近に、自分の色や形を置く行為。その周囲に似せようとするのではなく、違う色や形で「もっと素敵になるように」、互いに「調和」を求めながら形作られた結果、そこにはストレートな感性の発露とは別の、周囲の気配を感じようとするかのような、少し繊細で、何か意思のこもったような…作品にはそんな感動がありました。

 それぞれが色を置く瞬間、その「部分」だけで考えられたものが、見る者の心揺さぶる「全体」となっていった…そんな光景でした。

 そうした実践を聞いた後、ならば、早速それを実際に体験してみようということになりました。

 その日は、通常のサイズの画用紙をテーブルに置き、それを挟むように二人が向き合ったのですが、それはちょうど、将棋盤を囲む対局のようで、絵筆を持つ両者の間に、何とも言えない無意味な緊張感を漂よわせてしまうのが大人です。

私たち大人の足跡

 人の描いた絵の中に、自分の筆を滑り込ませていくというのは、少し申し訳ないようなソワソワする…不思議な感覚でしたが、時間と共にだんだんと持ち前の図々しさが発揮され、ズカズカと相手の領分へと分け入るうちに、なぜか互いの会話も弾んでいくのが面白い。画用紙の前に立つ者も、気の向くままに次々と入れ替っていく。その完成に対して、自分だけで責任を負わなくてよいという気楽さもあるのか、思考を止めて、指先の赴くままに筆を動かせる心地よさ…子どもたちにとっての造形活動は、こんなプロセスをふわふわと漂うことを楽しんでいるのだな…と。そして、出来上がった作品は、もうただの足跡…そんな思いも頭をよぎりました。

 先日、テラスで折り紙遊びに興じる二人の子を見かけました。丁寧に折り上げた2トーンの手裏剣を、自販機に見立てた小箱に入れて、熱心に私に教えてくれました。色の組み合わせに応じて、「桃と爆弾のジュース」「空と林檎のジュース」…こちらでは、私にはとても追いつけないくらいの想像力を…存分に「発散」させているようでした。

(令和元年9月号 園だより「ひぐらし」より)

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