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梅雨に逆戻りしたような長雨。子どもたちには、少し欲求不満の夏でしょうか。

保育・教育界では、様々な研修が開催されていく季節でもあります。中でも、少し視野を広げて考えてみるような、少し掘り下げてみるような、すぐに答えが出せないような…そんな講座、講義、セミナーなども増えるような気がします。じっと思いを巡らすには、この長雨も悪くない…とまでは思わないのですが、なぜか今年は、ことさら印象的な「言葉」を私の中に残している…夏であります。

もし今日が人生最後の日だったとしたら、今日しようとしていることを、私はしたいだろうか?

某多国籍企業創設者の有名なスピーチの一説ですが、この夏のある講演での引用を改めて聴きながら、「したい」という言葉を「すべきこと」に置き換えて自問した言葉でした。どうして人は、こんなシンプルな考え方で、ためらうことなく行動ができないのでしょうか。そして、
「今日しようとしていることを、子どもたちはしたい(すべき)だろうか?」とさらに自問は続くのでした。

私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私たちは自分の意思で出会ったんだよ。

この夏に見た映画の中で、主人公が語っていたセリフ。こんな風に考えると、巻き起こる毎日の出来事に、誠実に向き合えるのかも…そう思いませんか?

自分は大人なんだ、という思いで行動するのが子ども。ただ、大人から与えられたものを、まだうまく使いこなせないのだけれど、それでも、それぞれの年齢の中のマックスで…大人。

著名な脚本家の言葉(一言一句、この通りではなかったかも。こうした人の話が聞けるのも、夏ならでは)。
10歳の小学生たちの学校生活を、大人だけで演じる舞台作品を作るにあたり、実際の小学校生活を見学した際に感じたこと…なのだそうですが…この感性と脚本家ならではの表現力に脱帽しました。

「大人から与えられたもの」とは、大人側の期待やそれに応えるための技術、そして大人によって作られた今の状況や社会環境などを指すのだと、私は思いました。与えられた状況に、与えられたものを自分なりに駆使しても、まだまだうまく立ち回れないけれど、それぞれの育ちの中で獲得した「経験や能力」の範囲の中で、精一杯大人であろうとしている…そんな子ども観なのだと思うのです。

これは、幼児期の子どもたちの「ごっこ遊び」にも、顕著に現れる姿です。お父さんやお母さん、運転手、お姫様、正義のヒーローなど、ごっこの中の子どもたちは、自分の憧れ、理想の姿を演じようとします。現実の世界の自分とは打って変わって、ごっこの世界では、「です・ます」を使ってルールを説き、極めて道徳的に行動しようとします。ちょっと背伸びをし、精一杯、社会的な期待に応えようとする姿が、そこにはあるように思います。

それにしても、子どもと大人の境界は、一体どこにあるのでしょうか。その時々の自分の力の範囲の中で、精一杯大人であろうとする姿は、幾つになっても終わりがないことのような気がします。
年齢を重ねることが、たまたま「親」になったことが、イコール「大人」であることでもなく…「よき大人とは?」と問い直しながら、少し、背伸びを続けること…子どもたちに、見習わなければいけませんね。

モノが欲しいのではない。『遊び』が欲しいだけ。

これは、あるおもちゃ研究家の言葉でした。他の子が遊んでいるおもちゃを、せっかく奪い取ったのに、早々にそれを放って別の遊びへ…1・2歳くらいの子どもたちによく見られる光景です。
つまり、楽しそうな様子に魅かれて、その「楽しさ」を奪い、手に入れたつもりが、おもちゃ自体に「楽しさ」がある訳ではなかった…ということなのです。そこで、「楽しさとは何か」の体験をサポートしていく大人の存在が重要になってくる、ということなのですね。

さてみなさん、本当に欲しいものは…今その手の中に…あるものですか。

(平成29年8月号 園だより「ひぐらし」より)

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