フィード
投稿
コメント

大げさに言うのなら

 まだコートが手放せないくらいの肌寒さを感じつつも、桜の開花と共に、今年度をスタートすることができました。

 新入園のご家庭と一緒にスタートを切る、毎年のなかよし会(入園式)。そのほとんどが、0〜1歳児という時代になっていくに従い、会の諸々を削ぎ落としていった結果、自己紹介、つまりお互いの名前を「名乗る」というところだけを残した、シンプルな今のスタイルに落ち着ちついていきました。

 これだけはなくならない…「名前」というものが持つ、特別な意味合い…そこには、自分の存在を意識したり、時にはその尊厳にも繋がる、大事な思い入れがあるからかもしれないなと、今年も、たくさんの名前が飛び交う会場の声を聴きながら、あらためて考えていました。

 先日、自分が描いた絵の片隅に、自分の名前を記そうとする3歳児の様子を追った、K田保育士の保育記録を目にしました。(歩の記として、ご家庭に渡るのかもしれません。)

 文字といっても、様々に歪んだ◯が並ぶだけの、「らしきもの」なのですが、実はそれは、その丸い粒の一つ一つが、自分の名前が発音される時に聞こえる「音節」に対応していること、つまり日本語の発音と文字の繋がり方に、自分なりに気づき初めている証なのです。

 そしてそれは、普段の様々な遊びの中で育まれた指先の力や運動能力、そして周囲の様子を見聞きした経験などが下支えとなって、総合的に生み出された思考なのだと、その記録の中で考察されていました。

 さらに、そもそも、こうした「言葉」全体に対する関心を牽引していったものこそが、自分が一番親しみのある言葉…自分の「名前」の存在なのだと、その記録は結ばれていました。

 それを呼ばれているうちに、いつしかその音の響きまでもが、自分自身と渾然一体となる。そして、自分の存在や価値を確認したくて、自分を客観的に位置づけてみたくなった時、人は「文字」として、自身の分身として、それをどこかに刻み込んでみたくなる…自分の名を書き込んだ子の思いを、少し大げさに言えば、そういうことなのかもしれません。

 八百万(やおろず)の神々が暮らす異世界に迷い込んだ少女、千尋…有名なアニメ映画がありますね。

 その異世界での数少ない味方の「ハク」から、

 「湯婆婆は相手の名前を奪って支配するんだ。」

 と教えられ、本当の名前を隠し、「千」を名乗り続けた彼女。

 「名前が奪われると帰り道がわからなくなるんだよ。」

 と、そのハク自身も、本当の名前を思い出せずに苦しんでいた…そんな場面を思い出しました。

 本当の自分を守るため、現実と非現実の世界を分けたのが名前なら、音の言葉の世界から、文字の世界へといざなってくれたのも自分の名前。

 二つの世界の境界線の上で、それぞれの意味や価値の、橋渡しをしてくれているのが、名前なのかもしれません。

 あなたと私。みんなと私。名前を伝え合うことは、互いの世界が持つ価値観を、伝え合っていくこと、知り合っていくこと、そして、認め合っていくこと…そんな覚悟の宣言なのです。

 ようこそ、誠美保育園へ。
 ようこそ、新クラスへ

(平成31年4月号 園だより「ひぐらし」より)

返信する