フィード
投稿
コメント

されど、水遊び

 この夏は、少しでも密を避けようと、プールを駐車場に設置してみました。送迎時が、少し窮屈になってしまうことを気にしながらの試みだったのですが、おかげさまで大きな混乱もなく、水遊びの終盤を満喫しております。

 当初、もう一つ懸念されたのが、プールへの入水前に浴びる水の温度。プールに貯めたものとは違って、水道から出たばかり水は、真夏でもまだ冷たく感じるらしく、「冷たーい!」と大騒ぎになるので、プールを2階に設置していた際には、室内から給湯器のお湯を引いて、少し混ぜたりしていたのです。

 私が子どもの頃は、プールも井戸水を使っていたので、真夏の日差しを浴びても中々水温が上がらず、唇を紫色に染めながら入るのがプール。だから、定期的に水から出て、甲羅干しで体を温めながら入るのがプール。
 そんな風に「冷ゃっこい、冷ゃっこい!」(冷たい、冷たい!)と騒ぎながら入るのがプールだと思っているおじさんには、猛暑で生緩くなっている水道水の温度が問題になること自体、理解できないのです。思わず「冷たさを味わうのが、夏の水遊びだよね。」とぼやくと、少し呆れ顔の某看護師に「それ、いつの時代の話ですか…」と流される私。

 そこで急遽、倉庫にあったポリタンクを引っ張り出して、黒く塗装。そこに、水を溜めて炎天下に晒してみたところ、まずまずの湯加減。こうして現代っ子たちのプールの準備が整いました。

 盛夏のある日、園庭の草刈りの道具を片付けながら、目に入ってきたのがキラキラと光るプールの水しぶき。この暑さにもう我慢ができず、大波を起こしてはしゃぐ子どもたちの邪魔にならぬよう、露天風呂にでも浸かるように、そっとプールの隅に身を沈めてみたのです。すると突然その大波をざぶんと被り、慌てて顔を拭っていると、ひとりの子が、「手が大きくなった!」と、水鉄砲にしたマヨネーズの容器を私に向けました。それは、水の入った容器がレンズとなって、向こうに透ける手が大きく歪むようすを発見した、驚きの声でした。

 しまいには、みんなの水鉄砲の絶好の標的と化し、追われるように次に向かったのは、2階テラスの0〜2歳児の水遊び。ここの子どもたちの姿は、しぶきを上げて大はしゃぎする、先ほどの3〜5歳児とはまた違ったものでした。
 容器の穴から雨を降らせてみたり、ジョーロの水で水車を回したり、ホースに水を通したり…黙々と、そして何度も繰り返し試していくのです。

 先ほどのプールの彼らが、水を「利用」して遊んでいるのだとしたら、こちらの子どもたちは、水を「知ろう」とする姿のように見えました。そして、それに応えるように、水の性質を探求し、それが実感できるような遊具が、ここには色々と準備されているのでした。

 「水遊び」なんて表現すると、かわいらしい素朴な営みをイメージするのですが、園内のあちこちで目にした、真剣で好奇に満ちた表情から伝わってきたのは、この遊びの本質は「科学遊び」だということ。しかもそれは、年齢が下がるほどに実験的で探求的。まずは、水(液体)という得体の知れない物の正体を知っていく面白さを、そしてだんだんと、波やレンズや水鉄砲などその性質を利用して、新たな自分の「力」を手にしていく…そんな面白さを味わっているのです。

 行き着く所「遊び」とは、地球上の様々な物質や現象との駆け引きを、面白がっていくことなのかもしれません。風船、シャボン玉、紙飛行機、凧、そうそう、それからパラバルーン…こんな遊びを通して、私たちは「空気(気体)」とも、仲良くなってきたのです。

 そう言えば、最近あるところに、こんな文章を書きました。

 「面白さ」というと、それは一見、発達理解の外側にある非科学的で感覚的な物言いにも聞こえるのですが、実は、そこを求めていくことは、子ども理解、人間理解を深めようとする行為そのものであるように、私には感じられるのです。
 それは「楽しさ」とはまた少し違ったもの…子どもが心揺らしていることのエッセンス(本質)を掴むこと…保育者のそんな繊細で確かな力の必要性を、そこに感じるのです。

(令和2年8月号 園だより「ひぐらし」より)

返信する