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土と戯れて、令和

 薄緑色の新緑から活力をもらいながら、一年で一番爽やかな季節、元号の改まった五月を過ごしています。

 親父の会のみなさんによる4月の畝作りを合図に、鉢に、プランターに、ビニール袋に…そして、畑、園庭デッキ前、2階テラス、駐車場…園内のいたるところで、苗植えが始まっていきました。

 毎年の連作で、酷使され続けている誠美の畑。とある親父さんの進言で、今年から土壌改良も同時進めていくことになりました。

 かつての現代っ子だった職員たちも、こういった園芸や農作業を体で覚えているはずもなく…現代人よろしく、ググってはまたググる…を重ねています。少し頭でっかちになりながら、収穫増とバリエーション拡大に向かって、がむしゃらに挑んでいく姿は、もうひとりの子どもといった感じ。

 不安とプレッシャーを抱えながらも、収穫への期待を、少し高揚した口調で語るその言葉を聴きながら、「作物を育てる」ということの魅力というものを、改めて感じるのでした。

 「育てる」と言えば、私たちは真っ先に、「子どもたち」を思い浮かべるのですが、日単位、週単位で、ぐんぐんと伸びる植物の成長スピードというのは、また違った感動があります。

 また、動物と違って、移動もできず、能動的に意思を伝えては来ないので、完全なる己の庇護の元で守り育てている実感が持ちやすいということもあるのかもしれません。

 であるがゆえに、世話を焼いていた草木が枯れると、ものすごい自己嫌悪にも陥りますよね。

 植え方、日の当て方、水のやり方、肥料のやり方…つまり、自分の関わり方や考えかたの良し悪しが、評価されてしまったような…理由もよくわからないまま否定されてしまったような…そんな気持ちになることがあります。

 その一方で、大輪の花を咲かせたり、たくさんの実が収穫できたりした時の喜びは、何とも言えないものです。

 その成果は、紛れもなく、自分の働きかけによるもので、その持続力や忍耐力、知恵や努力、そういった「プロセス全体」、さらに言えば、毎日の生き方が評価されたように感じる気がします。

 そして、種や苗だったものが、明らかに大きく姿形を変えることを目の当たりにして、自分が相手に何らかの影響を及ぼした実感…有能感のようなものを感じるから…嬉しいのです。

 「育てる」という行為は、自分自身を映し出す鏡なのかもしれません。

 自分の行動や考えを、自分の得手不得手を、自分の駄目なところや、悪くないなといったところを、自分が大事にしていたことや、自分にない価値観を…振り返らせてくれる、気づかせてくれる、それを容赦なく、遠慮なく突きつけてくるのが、「育てる」という営みなのかもしれません。

 だから、この「育てる」という行為を、子どもたちなりに経験してみて欲しい…そう大人たちは願うのではないでしょうか。

 そして、プランターに撒く種や開ける穴の数を数えたり、苗木を支える丈夫な支柱を組んでみたり、子どもも大人も試されることばかりが続いていきます。

 育てることは、育てられること…満たしてくれるのは、お腹ばかりではないのです。

(令和元年5月号 園だより「ひぐらし」より)

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