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私の時間

 この半年の間、新しい生活様式が求められる中、保育園業界も否応なくオンラインの波に飲み込まれていきました。

 こういったデジタル技術に疎く、いつも二歩も三歩も遅れて、息を切らしながら追いかけていく私たちなのですが、春の頃までは、「オンライン」なんて言葉すら知らなかったあの園長たちが、「では、来週またズームで」なんて画面越しに笑顔で手を振る姿を見るたびに、この半年という時間が、私たちにもたらした事の意味をしみじみと感じるのです。

 そして、どちらかというと頭の堅い人種と思われるこういった人たちでさえ、なんだかんだと言いながら、こうして変化に応じていく逞しさを持っている事に、感動にも近い感覚を抱くのでした。

 セロテープ、ホッチキス、バンドエイドやタッパーのように、製品名である「ズーム」という言葉も、今やオンライン会議の代名詞となるくらいに、あっという間にその名も広がりました。ただ、会議の主催者によって、指定されるアプリがそれとは限らず、その度に別のアプリの操作を覚えねばならないことも、私には少し辛い作業なのですが、そういった会議を、時には1日に2つ3つハシゴせねばならないシンドさも相当なもの。
 世ではこれを「ズーム疲れ」と称するそうですが、始めのうちは「会場に足を運ばなくて済むなんて!」と感動していたのですが、すぐにあることに気づきました。

 確かに移動時間は節約できるのですが、会議が設定されている日は、やはりその開始時刻に遅れないようにと気にしながら、それまでをそわそわと過ごすことには、何も変わりがないのです。決められた時刻に、ピタリとタイミングを合わせようとすると、その前後の生活の調子が、どうにも狂ってしまう…どうやら、それが会議の煩わしさの本質のようだと気づき始めたのでした。

 ちょうど、走り幅跳びの踏切線に歩幅を合わせるために、それまでは滑らかだった助走の足並みが、その手前から急にドタバタと乱れてしまい、気持ちよく踏み切ることができない…そんなフラストレーションを感じるのです。
 時間的なロスの大きい「移動」という時間の中にも、心地よく会議へと気持ちを切り替えていくためのクッションのような役割があったのかも…そう思うようになっていきました。

 開始、出発、待ち合わせ、締め切り…「時の契約」の網の目の中で、私たちは生きています。「時」を互いに申し合わせることなく、みんなで社会生活を営んでいくことは、もはや現代では難しい。しかし一方で、それが、私たちに一定の不自由さやストレスを感じさせるようになったのも、間違いないのかもしれません。

 そういった約束のための時間、いわば「他者との時間」が「大人の時間」なのだとしたら、子どもにとっての時間とは何なのでしょうか。

 地図も持たずに、見知らぬ土地に降り立つと不安なように、昨日と明日がはっきりとしない状態を生きることも、大人だってとても不安なことです。子どもは1歳くらいを過ぎると、少しずつ見聞きしたことや経験したことを、具体的に振り返れるようになり、そこを足場に5歳くらいにかけて、これから先の事が、少しずつ見通せるようになっていくのです。「昨日まで」と「明日から」を見渡す力を手に入れ、時間の流れの中に我が身を置くことができるようになると、ぐっと安定感が増し、自立への歩みをより確かなものとしていくのです。過去や未来を語れるようになった幼児の姿には、私たちも本当に成長を感じますよね。

 そう、子どもにとっての時間とは、「何時から」とか「何時に」といった(約束を)守るための時間ではなく、今はまだ「自分のため」の時間。今この時に立っているという安心感を基地に、気の向くままに好奇心を広げ、あれにこれにと挑戦心溢れる毎日を生きていく…「縛られる」のではなく、「自由」を手に入れるために「時間感覚」を身につけていくのです。

 みんなには、今はたっぷりと「子どもの時間」を生きてほしい…「大人の時間」に振り回されながら、オフラインを心待ちにしながら…考えたことでした。

(令和2年9月号 園だより「ひぐらし」より)

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