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やりたがりは誰?

 先日、かぜグループ(3〜5歳児)で、お楽しみ会を開催しました。今年度は、保護者の参観をご遠慮いただき、子どもたちで楽しむ会となったのですが、その様子を撮影した動画のオンライン配信、ご覧いただけたでしょうか。

 特別な来客のない、いつもと変わらないホール。例年よりも、ずっと肩の力の抜けた会は、本当に「お楽しみ」な雰囲気が漂っていて…これはこれで、なかなか良いものです。

 いつもお話しすることですが、当日よりも、そこに至るまでのプロセスに意味があります。自分たちが披露したいこと、表現したいことを、準備や練習などを通して、自分たちなりに作り上げてみる…その途中途中で経験する内容に目を向けて欲しくて、今年も、その活動記録の掲示に励んで参りました。

 子どもは元来、やりたがりで、見せたがり。ですが、実はこの年齢の子どもたちは、ずっと身近なごく少数の人たちに、共感してもらうことで十分なのです。リビングで踊る姿に、家族から拍手をもらったり、たまたま周囲にいた仲間が「スゲー」と声をあげてくれたり。
 それに、まだまだ「やりたがり」さえ受け止めてくれたら、それで十分と思っている子も多い。

 世の大人たちは、運動や身体表現、製作物など、「大勢の前で、何かを披露する」ことを、なぜか成長のバロメーターにしたがるようです。そのくせ自分たちは、大勢の前では、意見を求められないように、存在を隠すように俯くことも多いというのに…。それくらい、披露することって、簡単ではないのです。
 それでも、何かを表現していくことは、本当は楽しいことなのですが、その規模や程度、時期や方法は、人それぞれではないでしょうか。それは、大人だって、子どもだって変わりはしないはずです。

 私は子どもが、脇目も振らず、何かに夢中になっている姿が好きです。その微動だにしない姿も、反対に、何かを探って、あちこちへと走り回る姿も…その子が見出している何かを「表現」している姿だと思うのです。
 舞台で演じることが「ライブ型」の表現活動だとしたら、私はこれを「ドキュメンタリー型」と名付けたい。ただ、それを限られた時間の参観を通して理解してもらうことは難しいことです。だから保育者が、毎日の活動の記録をせっせと張り出し、その営みを代わりに「表現」しようとしているのです。

 そして、お楽しみ会に向け、数々のチームが立ち上がっていく中、今年も昨年度に続き、カプラ(積み木)チームも結成。その製作活動の披露に挑戦したのですが、「活動の盛り上がりのピークが、会の手前に訪れてしまって…」と、担当者がその難しさを語ってくれました。
 そう、子どもたちは「お楽しみ会」に合わせようなんて、そんなつまらぬ了見で、遊んでいるのではないのです。それこそ本気で、夢中になって遊んでいる証。

 やりたがり、見せたがりの子どもたちは、一方で、「見たがり」でもあるのです。果たして、今年のお楽しみ会では、子どもたちが「よき観客」を担えるのかが、実はもう一つの目玉なのでした。
 時間をかけて「作り上げていく面白さ」を味わうことがテーマのこの活動。他人が取り組む姿は傍で見ていたし、時にはリハーサルにも付き合っていた子どもたち。当日、みんなの完成作を通して観れることを楽しみにする子もいる一方、もうお腹いっぱいといった感じの子もチラホラ。その気持ち、わからなくもない。

 ただ、舞台からの問いかけがある時には、前のめりでそれに応えようと声を上げる子どもたちの姿を見て、ここに、みんなで楽しむヒントがあるような気がしました。それは観客であっても、やっぱり「やりたがり」なんだということ。観客も一緒に動いたり、声を出したりできる内容なら、何度見ても楽しいもの。
 そういえば、最近のライブコンサートだって、観客との掛け合いの中で「一体感」を求めている…偶発性を楽しんでいる…そんなことにも気づくのです。「やりたがり」は大人だって変わらない。

 たまたま、某自治体の幼児教育関係者がお一人、このお楽しみ会の視察にみえていました。その帰り際、「子どもたちにとっては、『お苦しみ会』になっている例もまだ多くて…」と一言。
 「見せること」だって「見ること」だって、本当は大好きなはずなのに、それぞれに形の違うその場所へ、一人残らず連れて行ってあげられないのだとしたら、それは一体、なぜなのでしょうか。

 大人たちみんなで、そのことを考えていきたいのです。行事を遊びを、子どもたちの手に、取り戻していくために。

(令和2年12月号 園だより「ひぐらし」より)

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