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幽体離脱という育ち

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梅雨の時期を迎えました。
梅雨の語源は諸説あるようですが、これを「つゆ」との読み変えた先人の感性に脱帽です。

そして日本では、田植えを告げる季節でしょうか。バケツとはいえ、初めて、米作りに挑戦するかぜグループの子どもたちも、小さな小さな苗の芽吹きに今、心踊らせている…そんな話を担任から聞きました。

私にとって、担任たちの思いに耳を傾ける機会は、会話の他、文字を通した保育の記録があります。そこで一緒に考えたり、私自身、学ぶことがとても多いような気がしています。

そうした記録の中の、とある一節をご紹介します。

まだまだ、遊具や道具の使い方・片付け方が未熟な3歳児。それを見咎めた5歳児たちが、

5歳児たち「いけないんだぁ。」
保育者「優しく教えてあげて。」
5歳児たち「それは先生に聞いてから出すんだよ。」「使い方が違うよ。」

などと言葉を変えていく姿、またそれを受け入れていく3歳児の姿に、子ども同士の関わり合いの重要性を感じた、という内容でした。

「優しく言って」ではなく、「教えて」という言葉を選んだ保育者の意図に、見事に応じた姿は、さすが5歳児ですね。
これがもう少し幼い子ならば、ただ柔らかい語調に変えるとか、「先生が言ってたでしょ!」となりかねない所ですが、相手が「何をわかっていないのか」を考える力があるからこそ、「方法を伝える」言葉が出てきたのではないでしょうか。
これは「相手の立場に立って」考える力とも言えます。「他者視点の獲得」とも言われるこういった育ちは、就学前の乳幼児期に飛躍的に身につけていく力で、私たち大人も「成長したなぁ」と実感するポイントの一つですよね。

もう少し詳しく説明すると、3歳くらいまでは、「嬉しい」「悲しい」といった他者の「単純な」感情を、そして4歳以降からは、感情の「状態」や「背景」、他者の「立場」や「考え」なども、徐々に理解していくと言われています。
先ほどの年長さんたちは、まさに3歳児の立場(まだ新しい環境に不慣れなこと、理解力がまだ乏しいことなど)を想定しながら、言葉を選んでいるように見えます。まさに「教える」とは、こういうことですよね。

こうした力は、日々のぶつかり合いや共感など様々な関わり合いを通して、表情や声、体の動きなどを手がかりに推測し、少しずつ獲得していくのですが、実は、運動神経や手先の器用さ、音感などと同じように、これにも得手不得手があることを忘れないようにしたいものです。年齢を挙げたのは一つの目安。もちろん、サポートが必要な場合もありますが、結果として、それぞれのペースで育っていけばいいのだと、私は思っています。

それにしても、自我を離れ、他者の視点や思いの中に滑り込んでいくこの劇的な飛躍を、生まれてわずか数年の間に遂げていく凄さに、単純な私は、バカみたいに感動してしまうのです。

一方、他者の思いに気づくのは、同時に、自分という存在(自我)をしっかりと形作っていくからです。0〜2歳くらいの子どもたちは、まさにこれを頑張っている真っ最中。ここを育てるには、「自分の思いは他者に共感された。自分は認めてもらえた。」という経験が軸になります。そのためには、ご家庭も含めた私たち大人の役割が大きく影響しますね。

先の5歳児のエピソードの土台は、実はこの0〜2歳期にあることもぜひ、心に止めておいて欲しいと思っています。

さて、3〜5歳児の記録をもう一つ。
かぜグループでも、意図的に「朝の会」を設定しない日があります。そうしたある日、製作コーナーで物作りに取り組むひとりが、

「今日はずっとここにいていいの?こういう日、大好き!」

まさに、この思いを受け止めるための設定であっただけに、この保育者は、ある種の手応えと共にこの言葉を拾ってくれました。

と同時に、「朝の会」を通し、他者の言葉や思いを聞き合うことから、別の世界とも出会わせていきたい…、
「こういう日も大好き!」
と言わせたい…そんな闘志?も密かに燃やしているのでは…そんな勝手な想像を膨らませながら、読み入っていました。

(平成29年6月号 園だより「ひぐらし」より)

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